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【ショートショート】現代風『若返りの水』と後日譚

 日が暮れかけているのに、まだまだ昼間の熱が居座っているアスファルトの坂道を、義男は登っていた。腰椎すべり症で痛む腰をさすりながら、ゆっくり歩く。妻の良子に頼まれた用事を済ませて家へ帰る途中だった。畑で採れた野菜を良子の妹の淑子のところに届けたのだ。妻は最初、自分で行くと言ったのだが、去年軽い心筋梗塞で倒れてからは、できるだけ外の用事は義男が受け持つようにしている。義男は70歳、良子は68歳。二人とも、もうあまり無理のできない年齢に差し掛かってきた。

 義男は背中から腰にかけてびっしょり汗をかいていた。喉も渇いているのだが、ペットボトルの水はもう飲んでしまった。この坂を登りきって今度は下るまでコンビニもない。自販機でもあればなあ、と思ったがそれもない。追い払っても追い払っても、頭の中にグラスに入った美味しそうな氷水が思い浮かび、渇きがいや増す。ああ、せめてもう少し速く歩ければなあ、と痺れる太腿をさする。ふと見ると、前方の梨園の脇に「冷水スタンド 冷たいお水あります」の看板が見えた。こんな時に都合よくちょうど欲しいものが現れるとは。義男は無人の冷水スタンドへ寄った。

 カウンターの上に、氷水の入った大きな水差しが、紙コップとともに置かれていた。義男はありがたいことだ、と手を合わせ感謝した。コップになみなみ二杯の水をあっという間に飲んだ。「さあ、これで生き返ったぞ」義男は水のおかげで軽くなった足で家路を急いだ。

 「良子、帰ったぞ」と玄関で妻に声をかけた。良子が出てきて、きょとんとした顔をする。「どちら様でしょう」「何、バカを言っておる。俺だ」「えっ、あなたですか。一体どうしたんですか。随分若く見えますよ、まるで20代。… 私、夢でも見ているのかしら」

 義男はそう言われて鏡を覗いた。良子の言うように、20代の自分が映っていた。まさか。そう言えば、あの冷水スタンドの水を飲んだ後は腰痛も消え、足どりも軽く、小走りで坂を下りてきたのだった。まさかとは思うが、あれが噂に聞く「若返りの水」だろうか。良子に梨園の脇にあった冷水スタンドの話をして聞かせた。

 「まさか、あなた。そんな噂を信じるなんて。でも今のあなたは、まるで結婚した頃のようだわ。私と並んだら孫のように見えるでしょうね。あなただけそんなに若返って、私はおばあさんのまま?そんなの嫌よ」良子は義男が若い女に目が行って、自分のことなど見向きもしなくなるのを恐れた。夫は若い盛りに戻ってしまったのだから。

 「あなた、私にその冷水のある場所を教えてちょうだい。明日、行ってみるわ」

 翌日、良子は出かけて行った。夫の話のとおり、梨園の脇にスタンドがある。良子はできるだけ若くなろうと、水を二杯、三杯、四杯と飲み干した。飲みすぎて腹がタプタプ鳴った。しばらくここで休憩してから帰ろうと思った。

 夕方暗くなっても妻が戻らないので、義男は心配になって探しに行った。冷水スタンドに人影はなく、他を当たろうと思った時、赤ん坊の泣く声が聞こえた。スタンドの横のベンチに、今朝、良子が着ていた服にくるまった赤ん坊が横たわっていた。

 「良子、おまえ、まさか」

 義男の思ったとおり、それは「若返りの水」を飲みすぎた良子の姿であった。義男は赤ん坊を連れて家に帰った。

 さて近所では、若い義男がいくら説明しても二人の身に起こったことを信じるものはおらず、そのうち、「義男さんの家のご親戚が越してきたのだろう」と理解された。幼子を連れた男やもめ、と同情され、縁談を持ってくるお節介者もいた。どういうわけか、良子の妹、淑子の孫が義男に恋をして、何かと世話を焼きに家を訪ねてきた。そのうち住み着くようになり、義男はほだされて二人は結婚した。継母と継子の折り合いがどうにも悪いわけを知る者は、義男の他にいなかった。


**これは島根県に伝わる昔話『若返りの水』を筆者が現代風にリライトし、さらに、おばあさんが赤ん坊になってしまったところからの後日譚を創作したものです。本覧に毎回コメントを下さるtsunokoさんからヒントを頂きました。感謝いたします。

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