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【ショートストーリー】穴の消滅

 Annaが消えた。失ってしまったのだ。私は混乱しながら、さっきまで穴があったあたりを人差し指でなぞった。穴がなくなってしまうと、これまで自分が目にしてきたもの、関わってきたものの存在すべてに、確信が持てなくなってしまった。人生なんておおかたそんなものなのかもしれない。

           *

 数か月前、私は離婚調停の最中だった。幼い一人娘の親権を巡って妻と揉めていた。形勢は妻に有利だということは明らかで、私は生きる望みを失いかけていた。

 別居中のマンションの部屋の壁に、直径3センチメートルの穴が空いているのを見つけたのは、ちょうどその頃だった。壁の向こうは隣家。人差し指を穴の中に入れてみると指の付け根まですっぽり入った。指先には何も当たらない。割り箸を取ってきて入れてみた。最後まで入った。まさかとは思ったが、モップの柄もするすると入っていった。覗いてみたが真っ暗で何も見えず、穴がどのくらいの長さなのかは知りようもない。管理会社に連絡しようと思ったものの、忙しさに取り紛れてしまった。

 穴の入り口はコンパスで描いたような正確な円。それがどうも毎日少しずつ大きくなっていることに気づいたのは、穴を見つけてから10日目くらいだった。以来、私は毎日直径を測るのが日課となった。一日2ミリメートルくらいの割合で穴が成長しているのがわかった。

 穴が成長しているとわかってからは、管理会社には電話するのがためらわれた。「ある日突然壁に穴が空いて、それが一日2ミリメートルの割合で成長しているんです」こんなことを言ったとして誰が信じるだろうか。いや、ほんとうはそれよりも何よりも、こんな不思議な穴が部屋にあることに、自分でもおかしいくらいの高揚感を覚えていたのだ。まるで密猟したペットを飼っているような気持ち。もし管理会社に言って穴が塞がれでもしたら、全てがおしまいになるのがいやだった。

 毎日仕事から帰宅すると、穴に直行した。定規で直径を測り、成長記録を手帳につける。私は親しみを込めて穴を〈Anna〉と呼んだ。周縁を指で撫でて話しかけた。妻や娘への思いを吐露することが多かったが、その日、起きた出来事や、仕事の愚痴、街で見た面白い風景など、話題には事欠かなかった。そのうち今、読んでいる小説を朗読して聞かせたり、一緒にテレビを見て笑ったりした。Annaのそばにテーブルを置き、花を飾り、晩酌をした。まるで私と過ごす時間を糧に、Annaは大きくなっているように私には思えた。

 Annaの直径が30センチメートルになろうかというある日、私はいたずらに自分の頭をそっと穴に入れてみた。彼女の鼓動が聞きたいと思った。いや、もっと衝動的に、彼女と繋がりたいと望んだのだ。その瞬間、穴の奥から轟音とともに強い風が吹いて、私の頭は穴の外に押し出された。尻もちをついて床に倒れた。

 その日からAnnaは、いくら話しかけても無機質な冷たい穴になった。Annaは成長をやめてしまった。そして今度は小さくなり始めたのだ。大きくなる時は一日に2ミリメートルずつだったのに、縮むのはあっという間だった。私は慌てた。Annaに手を当て懇願した。「私に落ち度があったのならどうか許してほしい。お願いだから私のそばにいてくれ。君の成長を見続けるのが、私の生きがいだったのだ」

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 数日のうちに穴は塞がり、跡形もなく消えてしまった。穴のあった場所を懐かしく撫でることしかできなくなった。

 

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