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爪を立てる香り なだめる香り

 それがD&Gの香水だろうが、プルーストのマドレーヌと紅茶だろうが、嗅覚がイメージに刻み込むインパクトは鮮烈だ。

 それは嗅覚が、五感の中でただ一つ、喜怒哀楽の感情を司る大脳辺縁系にダイレクトにつながっているからだと言われている。

 小さい頃から、香水のキツい女の人が苦手だった。なんだか怖いと思った。身近にそんな大人がいたのかどうかは覚えていないけれど。そういう女の人は、去った後もしばらく存在を主張し続け、そしてふとした瞬間、予告もなしに、Hey, it’s me! と戻ってくる。姿はないのに香りだけ。こちらは鼻がもげそうだというのに、Look at me! Remember me? を繰り返し、心のドアを叩き続ける。恐怖映画さながらだが、これが私の強い香水に対する子どもながらのイメージだった。

 ある時、電車で知人に出くわした。彼女はその日、年齢にそぐわない、どちらかというと若い子のつける香水を纏っていた。纏うというより、頭からジャブジャブ浴びて来たという方がふさわしかった。
 比較的混んでいた車内で、私はまわりの乗客の反応が気になった。こちらを見てヒソヒソ話を始めたカップル。読んでいた本から顔を上げて、このテロにも近い臭気の源を探ろうとする男性。明らかな敵意の視線を彼女に刺し続ける女性。閉口しているのは私一人じゃない、と知る。
 家に帰ってからも、私に憑依した彼女のディオールがつきまとう。真っ先にシャワーを浴びたくなるなんてラブアフェアのあとの男性みたい、と苦笑した。すべての香水とそれを纏う人を否定しているわけではない。あの傍若無人さが香りと一体となって、私の神経に爪を立てようとしていることに恐れを抱くのだ。

 アグレッシブな香りに引っ掻きまわされた私の神経をなだめてくれるのは、ローリエとコンソメキューブで煮込んだ野菜スープの匂い、陽射しをたっぷり吸い込んだ洗濯物の匂い、どこかの家の庭からやってくる落ち葉焚きの匂い、雪が降りそうな日の湿って冷たい空気の匂い。みんな子どもの頃から知っている、懐かしい匂いだ。
 これらの匂いとともにふと脳裏をかすめるのは、ブリキの鍋、屋根の上の物干し台、おままごとをした庭先、玄関までの柘植の木と石畳みなどいろいろだが、どれも温かく心を満たしてくれる記憶の小片たちだ。

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