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[英詩]ディランと聖書(4) ('Disease of Conceit')

※ 旧「英詩が読めるようになるマガジン」(2016年3月1日—2022年11月30日)の記事の避難先マガジンです。リンク先は順次修正してゆきます。

「英詩のマガジン」の主配信の2月の1回目です(英詩の基礎知識の回)。

本マガジンは英詩の実践的な読みのコツを考えるものですが、毎月3回の主配信のうち、第1回は英詩の基礎知識を取上げています。

これまで、英詩の基礎知識として、伝統歌の基礎知識、Bob Dylan の基礎知識、バラッドの基礎知識、ブルーズの基礎知識、詩形の基礎知識などを扱ってきました。(リンク集は こちら )

また、詩の文法を実践的に考える例として、「ディランの文法」と題して、ボブ・ディランの作品を連続して扱いました。(リンク集は こちら )

詩において問題になる、天才と審美眼を、ボブ・ディランが調和させた初の作品として 'John Wesley Harding' をアルバムとして考えました。(リンク集は こちら)


最近、7回にわたってボブ・ディランとシェークスピアについて扱いました (リンク集は こちら)。前々回から、歴史的には、そして英語史的にも、同時代の英訳聖書と、ディランについて扱っています。

前々々回 もあげましたが、ディランと聖書の問題を考えるうえでの基本的文献は次の通りです。

(1) Bradford, A[dam]. T[imothy]. 'Yonder Comes Sin' [formerly 'Out of The Dark Woods: Dylan, Depression and Faith'] (Templehouse P, 2015)
(2) Cartwright, Bert. 'The Bible in the Lyrics of Bob Dylan', rev. ed. (1985; Wanted Man, 1992)
(3) Gilmour, Michael J. 'Tangled Up in the Bible' (Continuum, 2004)
(4) Heylin, Clinton. 'Trouble in Mind: Bob Dylan's Gospel Years - What Really Happened' (Route, 2017)
(5) Karwowski, Michael. 'Bob Dylan: What the Songs Mean' (Matador, 2019)
(6) Kvalvaag, Robert W. and Geir Winje, eds., 'A God of Time and Space: New Perspectives on Bob Dylan and Religion' (Cappelen Damm Akademisk, 2019) [URL]
(7) Marshall, Scott M. 'Bob Dylan: A Spiritual Life' (WND Books, 2017)
(8) Rogovoy, Seth. 'Bob Dylan: Prophet, Mystic, Poet' (Scribner, 2009)

これら以外にも、一般のディラン研究書のなかにも聖書関連の言及は多く含まれています。それらについては、参考文献 のリストを参照してください。

※「英詩が読めるようになるマガジン」の本配信です。コメント等がありましたら、「[英詩]コメント用ノート(202102)」へどうぞ。

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英詩の実践的な読みのコツを考えるマガジンです。
【発行周期】月3回配信予定(他に1〜2回、サブ・テーマの記事を配信することがあります)
【内容】〈英詩の基礎知識〉〈歌われる英詩1〉〈歌われる英詩2〉の三つで構成します。
【取上げる詩】2018年3月からボブ・ディランを集中的に取上げています。英語で書く詩人として新しい方から2番めのノーベル文学賞詩人です。(最新のノーベル文学賞詩人 Louise Glück もときどき取上げます)
【ひとこと】忙しい現代人ほど詩的エッセンスの吸収法を知っていることがプラスになります! 毎回、英詩の実践的な読みのコツを紹介し、考えます。▶︎英詩について、日本語訳・構文・韻律・解釈・考察などの多角的な切り口で迫ります。

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これまでのまとめ

前々々回 はボブ・ディランと聖書のことを扱うにあたり、いくつか実践的に知っておいたほうがよいことも述べました。簡単にふりかえると、

・英語の骨格そのものに英訳聖書が入っている。聖書由来の英語は多い(例:King of Kings, the servant of the servants)

・欽定訳聖書 (AV) はシェークスピアと同時代の初期近代英語が用いられる

・聖書を用いたのがその人の信仰心に発するのかどうかは、詩の解釈を左右する

・ディランがはっきりとキリスト教に改宗したと見られる1979年頃までの作品にも、新約聖書を含む聖書への言及は少なくない

・ディランの場合、イエスが人生に登場する時期から、はっきりと霊的生活が変わったと思われる。それの音楽への反映は、その少し前の時期、すなわち、アルバムでいうと 'Street-Legal' (1978) の頃から少しづつ現れる

・英詩の中のある表現が聖書由来であることに気づかないと、その背景をなす文脈に目が行かず、まったく詩の景色が分らないことがあり得る。その意味で、聖書(の英語)は注意を払っておく必要がある

・アルバム 'Saved' (1980) 所収の 'What Can I Do for You?' は、ディランと聖書の問題を考えるうえで恰好の歌

・この歌が教えてくれるのは3点

1. ディランの聖句の現代化
2. ディランの聖句への応答
3. ディランの歌の組立て

・ディランは聖書の「ことば」そのものでなく、聖書の「精神」を重んじているといえる。ゆえに、ギルモーのような聖書学者の分析眼よりも、リクスやグレイのような文学的感性のほうが、ディランと聖書の関わりを見るには必要かもしれない

前々回 は、'Blind Willie McTell' を、聖書との関りで考えました (アルバム 'The Bootleg Series, Vol 1-3: Rare & Unreleased 1961-1991' [1991] 所収)。

・聖書テクストを最初の連と最後の連とに引離して配置するという方法を使っていると、リクスが指摘 (「分離技法」とでも)

・1連の 'this land' ということばに着目。ウディ・ガスリーの連想だけでなく、聖書的な語句とみる。Cruden のコンコーダンスで聖書における文脈を調べる

・旧約聖書で 'this land' が 'seed' と共起している。「この地」を「(あなた[がた]の) 子孫」に与えるという神のことばの文脈である

・'Blind Willie McTell' の1連に 'this land', 5連に 'seed' が出てくる

・This land is your land (ガスリー) が希望を抱かせることばであるとすれば、This land is condemned (ディラン) は気を萎えさせることばである

・corruptible seed は腐敗への傾きを持つ人々を思わせ、絶望的にみえるが、希望がある (ペトロの手紙一 1章23節に接続することによって)

・ペトロの手紙によれば、神の言葉という、朽ちない種 (incorruptible seed) によってあなたがたは新たに生まれた (born again) (ディランは1979年頃にキリスト教の born-again [新生] 派に改宗したとみられる)

・God is in His heaven and we all want what’s His の解釈はむずかしい

・われわれ人間は、自分のものでない、神の天 (what’s His) を望んでやまないのか、それとも、われわれは神の望み (what He wants, His wish) を望んでいるのか。この両義性はディランの真剣な問いかけを反映する

前回 は、'Sad-Eyed Lady of the Lowlands' を、聖書との関りで考えました (アルバム 'Blonde on Blonde' [1966] 所収)。

謎の多い大作であるが、次のコーラスは特に分りづらい。

Sad-eyed lady of the lowlands
Where the sad-eyed prophet says that no man comes
My warehouse eyes, my Arabian drums
Should I leave them by your gate
Or, sad-eyed lady, should I wait?

3連の冒頭の行 The kings of Tyrus with their convict list を補助線におき、エゼキエル書の文脈を視野に入れることで、やっと考察が可能になる。その文脈で lowlands, sad-eyed prophet, no man, ware(house) などを聖書的な意味に解釈すれば、おぼろげに像が見えてくる。

・sad-eyed prophet(s) はエゼキエル書 24章16節を考えに入れると理解できる (yet neither shalt thou mourn nor weep, neither shall thy tears run down)

・no man はエゼキエル書 44章2節などを考えに入れるとその重いひびきが理解できる (This gate shall be shut, it shall not be opened, and no man shall enter in by it)

・lowlands はエゼキエル書 26章20節を考えに入れると理解できる (When I shall bring thee down with them that descend into the pit, with the people of old time, and shall set thee in the low parts of the earth, in places desolate of old, with them that go down to the pit, that thou be not inhabited)

・コーラスの次の2行は聖書的な絵の中に、未知の女性 (Sad-eyed lady of the lowlands) を置く。それにより、聖書の文脈につながる、別の世界が広がる。

Sad-eyed lady of the lowlands
Where the sad-eyed prophet says that no man comes

いわば「(古代の) 現代化技法」、あるいは見方を変えれば「(現代の) 古代化技法」とも言える

・warehouse はエゼキエル書 27章16節を考えに入れると理解できる (Syria was thy merchant by reason of the multitude of the wares of thy making)。ここで wares は貿易用の商品のことであり、山のような品々を見るのに、「わたしの倉庫の目」(My warehouse eyes) を覗き込む以上にふさわしい場所があろうかと、リクスは指摘する

・リクスは「貪欲」(covetousness) の究極の対象が sad eye であるという。そのような魅惑をそなえた女性に対し、歌い手は下僕の位置にある


Disease of Conceit

今回は、'Disease of Conceit' を、聖書との関りで考える (アルバム 'Oh Mercy' [1989] 所収、下)。

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この歌は普遍性をそなえている。〈慢心という病〉とは、いかにも普遍的な題だ。現代アメリカの歌というより、古今東西、どこの歌でもあり得るだけの普遍性をそなえている。

したがって、その普遍性だけを論じてもよい。しかし、ここでは、聖書との関りの観点から、この歌を考えてみたい。その理由は、慢心は高慢に通じるからで、高慢は七つの罪源の初めに位置する。ゆえに、キリスト教を基盤とする西欧社会では、まず、慢心は罪として意識され、罪であるならば、それを比喩的に病と表現することは何ら不思議でない。そのように聴き手はこの歌を受取るだろう。

動画リンク [Bob Dylan, 'Disease of Conceit' (London, 8 February 1990)]

上の動画は、画像は悪いが、ディランの力強いピアノと歌唱とが記録されている点で貴重。2連→1連→ブリッジ→4連の順に唄われているようだ。3連は唄われていない。このことは、物語的な歌でなく普遍的な歌であるがゆえに順序はあまり意味がないことと、3連の厳しい内容 (この病で人が死ぬということ) を人前で唄うことへの躊躇いをしめすのかもしれない。

動画リンク [Bob Dylan, 'Disease of Conceit (Official Audio)]


conceit

conceit という語は、そもそも「病」の意がある。OED の次の11番の語義に記すごとくである。

A (morbid) affection or seizure of the body or mind「心身の病」

次の1568年の用例が如実にその義をしめす。

When newes of this . . . was shewed to his father, he tooke such an inward conceipt, that it cost him his lyfe.
この報せが彼の父にもたらされたとき、あまりの心痛にうたれて、一命を落とすこととなった。

あるいは、次の1622年の用例。

He found the affection of the Pope so estranged from him, that hereupon hee tooke a conceipt and dyed.
教皇の好意が疎遠になったことを悟った彼は発病し、死んだ。

興味深いことに、これらの用例には共通点がある。重大な精神の病であることと、死に至ることとである。

つまり、conceit とは、死に至る病なのだ。

しかし、それは本来おかしい。なぜなら、conceit の本来の意味は conception (conceiving) であるからだ。つまり、「胚胎」「始まり」を意味する。死 (death) でなく、生 (life) を志向する。

ここに早くも conceit が両義性をはらむことが明らかになる。

この病が厄介なところは、かかっていることが本人に分らないことだ。だから、ある日とつぜん気がつくことになる。ゆえに、ディランは3連で次のように唄う。

Comes right out of nowhere
And you’re down for the count

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