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[書評] 香君 下

上橋菜穂子『香君 下 遥かな道』(文藝春秋、2022)

上橋菜穂子『香君 下 遥かな道』(2022)

世界に満ちている香りの声

上巻から続く第四章の中に、その言葉は出て来る。

世界に満ちている香りの声に浸っていると、家族と暮らしている所とは、薄い膜を隔てた別の場所に生きているような気がした。(90頁)

上橋菜穂子『香君 下 遥かな道』(2022)

アイシャは〈物心ついた頃からずっと、香りの声を聞いて生きてきた〉。

つまり、この物語の主人公アイシャにとって、この香りの声は〈妙に懐かしい〉もの。無性に戻りたくなる気持ちがわくものなのだ。

しかし、戻ってしまえば、家族とは別の場所に行くことになる。

その感覚が蘇る。いま引きこまれるオアレ稲(帝国の民を支える稲で、帝国の草創期に神郷オアレマヅラからもたらされた)の香りの声で感じる別の世界は、しかし、〈これまで感じていたものとは違う〉。〈もっと明らかに異質なところ〉なのだ。

それゆえ、恐ろしいと、アイシャは感じる。この恐ろしさの問題が、下巻を導いてゆきそうな予感がしてくる。

読者は、このようなアイシャの感覚に同期しはじめる。香りの声に浸ることが別の世界、異質な世界にいざなうことを感じはじめるのだ。

それは、現実に本を読んでいるところから、別のところへ行くような感覚でもある。目の前の現実が一瞬かき消え、眩暈を覚えるほどの感覚といえるかもしれない。

よく考えると、このような感覚は、最上のファンタジーが時折もたらすものだ。稀有な瞬間とも言える。

生物同士の目には見えないやりとりが、このような世界にいざなうのだとしたら、それはファンタジーを超えて、現実の世界にも関る問題だ。

アブラムシにやられている草が特別な香りを発し、それを嗅ぎつけた天敵テントウムシがやってきて、その植物を救う。これは現に起きている生物界のメカニズムだ。

それはそうなのだが、では、もし〈天敵〉が存在しなかったとしたら? 救難信号はむなしく虚空に消えてゆく。

アイシャがオアレ稲の香りの声に引きこまれつつ、その声に応じるものがあるのかとの疑問が生じ、そこから恐怖が生まれるのはある意味で当然だ。

目に見えない世界のネットワークの動きを正確にとらえるのはむずかしい。むずかしいけれども、わかったときには何物にも代えがたい喜びがある。

読者としては、香りの声を聞くアイシャを応援したいという気持ちがわいてくる。アイシャは利害関係にかまわず、ともかく他者を助けたいという一心で動いているからだ。

著者の中に物語の種が宿ったのは、松井健二・高林純示・東原和成編著『生きものたちをつなぐ「かおり」——エコロジカルボラタイルズ——』(フレグランスジャーナル社、2016)という本を読んだときだったという。物語の中心をなす少女のイメジについて次のように書く。

植物は化学物質を使って、周囲と様々なやり取りをしている。植物が「静かな存在」だと思っていたのは、私がそれを感じることがなかったからで、植物が発している香りの意味を理解することが出来たなら、彼らが行っている賑やかなやり取りが「聞こえてくる」に違いない——そう思ったとき、ふいに、石造りの高い塔の窓を開け放ち、陽の光と風を顔に受け、その香りを感じている少女の姿が見えて、『香君』というタイトルが頭に浮かんだのです。(454頁)

上橋菜穂子『香君 下 遥かな道』(2022)

上記の本以外に、著者は特に次の3冊を挙げて、刺激を受けたことを述べている。

・ロブ・ダン『世界からバナナがなくなるまえに:食糧危機に立ち向かう科学者たち』(青土社、2017)
・高林純示『虫と草木のネットワーク』(東方出版、2007)
・藤井義晴『アレロパシー——多感物質の作用と利用』(農山漁村文化協会、2000)

これら以外にも多くの専門分野の知見を吸収した上でこの物語は書かれている。

しかし、物語上重要なある一点については、著者の想像の産物であり、参考文献は挙げられていない。それは神郷オアレマヅラへ至る道だ。その神郷とこの世界との通い路が開いているときに、重大な出来事が起きると語られる。

神郷は、帝国北西部の天炉山脈のかなたにある神門の山ユギラの先におそらくある。

このあたりのことは何度も語られるが、霧の彼方にあるようなとらえ難い雰囲気がただよう。著者は述べていないが、「神門」のイメジは、ある種のポータルを念頭に置いているのではないかと思われる。

ポータルと聞いて評者が思いうかべるのは南極の地下だが、アボリジニの研究をしてきた著者の場合はオーストラリアのどこかだろうか。

#書評 #上橋菜穂子 #香君

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