見出し画像

[書評] 伊勢物語

坂口 由美子編『伊勢物語』(角川学芸出版、2007)

歌を詠む者は皆『伊勢物語』を熟知していた

源氏物語に大いに影響を与えた伊勢物語。その秘密を探ろうと本書を読んだら、逆に、伊勢物語じたいのおもしろさの虜になってしまった。

本書では伊勢物語のおもしろさとそれを成りたたせる時代背景がわかりやすく書かれ、伊勢物語をよりおもしろく味わえるようになる。伊勢物語が同時代および後世に広く深く影響を及ぼした理由は、あまりにもおもしろく魅力にあふれた作品であるからだということがよくわかる。

加えて、物語の中心をなす歌の圧倒的な力がある。伊勢物語は歌を軸に物語が組立てられている歌物語なのだが、たとえストーリーが後づけであったとしてもまるで歌の縁起物語であるかのように読めるほど説得力がある。これは何といっても歌のなせるわざだ。歌を読めばすべて納得できてしまうほど歌の存在感が大きい。

特に、古今和歌集にも採られた有名な歌も出てくるが、伊勢物語を読んだ後だと、その歌のそもそもの成立事情についてこのストーリーを抜きにしては想像しにくくなるくらいだ。このように、古今集と伊勢物語の成立に関る相互影響関係については密接なものが想定され議論がおこなわれている。

後代になっても、伊勢物語のエピソードに材をとった作品は数多いし、中にはパロディ作品まである(江戸時代の仮名草子『仁勢(にせ)物語』など)。それもこれも、皆が伊勢物語をよく知っているからこそできることだ。

ところで、紫式部が伊勢物語に大きな影響を受けて源氏物語を書いたことは確かだとしても、おそらくこれほどの歌は自分には詠めないと心の底では思っていたのではないか。だから、源氏物語では歌より物語のほうが比重が大きく、全体として「小説色」のほうが濃いのだと評者は想像する。

現代語訳でひとつ不満なことがある。それは、文法、特に歌の文法が訳に反映されていないことだ。敬語が使われていない歌であっても、現代語訳には敬語が使われているのだ。この事情は源氏物語でも同様である。各種の本歌取り技法や序詞、枕詞のたぐいがきちっと現代語訳されているのとは対照的である。

地の文には複雑で多層的な、高度に発達した敬語表現が用いられているとしても、歌はその敬語表現はなくストレートな物謂いがなされている。そうだとすれば、現代語訳でもそのように表現すべきはずだ。

率直な心情の吐露が歌でなされているからこそ、読者は登場人物の心の機微が深く読みとれるのだ。

本書を読むと、伊勢物語が二つの主題を中心とし、そのまわりに変奏曲が配されていることがよくわかる。第一の主題が「二条の后高子の物語」、第二の主題が「伊勢の斎宮恬子の物語」であり、いづれも〈禁断の恋〉を扱う。

斎宮の恬子内親王は第55代文徳天皇の娘である。二条后の高子(藤原高子)は第56代清和天皇の女御、のち皇太后である。

伊勢物語で女の名前が明記されているのはこの二人のみである。このように天皇に近い、実在する当時のトップの人びとを物語に書いて大丈夫だったのかと心配になる(斎宮の件は当時の貴族社会にとっては衝撃的な事件)。

〈禁断の恋〉の度合では恬子内親王のほうがずっと高い。神聖な斎宮職(皇祖に仕える神職)では恋はもってのほかであったからである。それだけに、その斎宮と〈昔男〉(在原業平)との関りを描いた伊勢物語はきわめてスリリングである。

本書の解説は各方面にわたって実に丁寧になされているが、ただ一つだけ、作者については何の手がかりも与えてくれない。それだけが惜しいところである。成立年代も不明である。ただし、主人公と思われる在原業平の年表はしっかり付いており、これをみれば話がよくわかる。

作者や成立時期もさることながら、おそらく伊勢物語の最大の謎は、題になぜ〈伊勢〉と付いているかである。伊勢斎宮との関りからとの説が有力だが、最終的なところは不明である。

印象に残る歌は多いが、一つだけ挙げておく。八二段で惟喬親王と右馬頭(=在原業平だが、〈その人の名忘れにけり〉ととぼけてある)が水無瀬の離宮へ行ったおりの歌で、だれでも知っている歌である。伊勢物語では無名の〈馬の頭なりける人の詠める〉となっている[古今和歌集(巻第一)では在原業平朝臣の作と明記]。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

#書評 #伊勢物語

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?