[書評] 香君 上
上橋菜穂子『香君 上 西から来た少女』(文藝春秋、2022)
五感が鋭くなる。何が急所で、何に注意を払うのか
目に見えない香りに導かれるように、読み出したらやめるのがむずかしいほど、惹きこまれる。
上橋の時代の臍をとらえる感覚には舌を巻かざるをえない。いま、なにが急所で、なにに注意を払わねばならないのか、文字通り嗅覚をはたらかせた作品。
仮想空間でアバターを動かすことがいくら本当らしく見えたとしても、この領域には踏み込めない。
はやりやまいへの対策と称してほどこすものに含まれるものから生じる邪気はこの領域でも察知できる。
それらのことは、文字通り嗅覚のはたらくひとには自明だが、そうでないひとには無縁だ。
こうしたことを考えると、嗅覚は深い問題であることがわかる。ある種のチャネル/トンネルであり、そこをくぐってなにか別の圏へと通じているのだ。
それだけではない。嗅覚に意識を向けていると、五感の他の感覚まで鋭くなってくる。目も耳も。
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この物語は常人を超えた嗅覚の持ち主が主人公。その世界把握の能力に気づく者、気づかぬ者。
いや、世界把握という言葉は皮相にすぎる。おそらく、生きるものの存在の根幹に関るなにかを直覚しているのだ。無謀諦。
〈嗅て知り〉の世界だ(『致知啓蒙』)。
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その主人公は15歳の少女、アイシャだ。他の人にはわからないかすかな匂いにも反応し、その匂いにこめられたさまざまなものも読取る。
読み進んでゆくうちに、アイシャにとっての香りは単なる香りではなく、もっと豊かな、広い、深いなにかであるように感じられてくる。
著者にはそんな意図はないのかもしれないが、評者にはアイシャが捉える香りは、ある種の生体情報、それもオーラのようなものに思える。
『オーラ・テクノロジー』という本を読んだことがあるが、そこにはオーラが視覚化されていた。視る人には視えるといった、〈霊視〉的なものでなく、ある種のテクノロジーを応用した方法でオーラを可視化していた。
しかし、あくまで視覚情報であり、そこに嗅覚情報はなかったように思う。つまり、オーラを香りとして捉えることがありうるとすれば、それこそまさに本書がおこなっていることである。知る限りでは、オーラを香りとして捉える知見は他にない。
驚くべきは、ここでの香りは、オーラよりもリーチが長いことだ。オーラの場合、リーチは4メートルと言われている。もっと近く、目の前の人物が発する匂いの場合は、そこに込められた感情の起伏までも読取れることが本書には出てくるが、アイシャが捉える香りはもっとずっと長い距離を超えて把握される。おそらくキロメートルのオーダーに達するだろう。
もちろん、ファンタジー作品だから、なにかの知の体系に基づいている必要もないが、その筆致は確かな実感に裏打ちされていることが端々で感じられる。興味深い。
なお、著者はもともとオーストラリアのアボリジニを研究する文化人類学者で、その種の超感覚的な知覚の世界には深く親しんでいると思われる。
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ともあれ、主人公アイシャは、逐われた王の孫娘として逃亡を続ける身であり、新しい世界の体制の中で、権力者たちのポリティクスに巻込まれてゆく。
この上巻では、帝国の見取り図と、主要な登場人物の紹介と、プロットの萌芽が、丁寧に紡がれる。
だんだんと見えてくるのは、帝国の存立が、ある稲の生育に関ることだ。地政学的に言えば、その稲が戦略物資の最たるものなのだ。それは単独で成立するものでなく、稲にやる肥料や、そこから稲を育てる種籾の生産や供給体制にまで関る。気象条件はどうか。害虫の問題はどうか。海運はどうか。帝国の防衛はどうか。それらを支える法制度はきちんとしているか。
それだけでなく、植物同士の会話という側面にも繊細なアンテナをはりめぐらし、眼前の一本の木も、周りとの関係の中で、大きなエコシステムの中で俯瞰させてくれる。この植物への感性は、米国の作家アーシュラ・ルグィンを思わせる。
上でプロットの萌芽と書いたが、435頁ある上巻の後半で物語は徐々に動きはじめ、巻末に至る頃には風雲急を告げる気配がしてくる。上巻には第一章から第三章まで収められ、第四章の途中で終わる。
第四章は下巻につづくことになる。
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