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【書評】『アングロ・サクソン文明落穂集 9』

渡部昇一『アングロ・サクソン文明落穂集 9』(広瀬書院、2019)

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「英語教育」(大修館書店)に2000年9月から2004年9月に掲載されたエセーを収録した書。副題に〈伝統文法以外の方法で、日本の学生に英語を読み、かつ書く力をつける言語学はない。〉の言葉が添えられている。必ずしもその話題のみでなく、交友記の類も交じる。どれも英文法や教育や文献学に対する著者の含蓄と愛情とユーモアがこめられており、読んでいて楽しく、刺激を受ける。

伝統文法を教育にどう採入れるべきかという問題よりも、翻訳などの、むしろ具体的な諸問題について、伝統文法家の立場から見解を述べている文章に、特に読書家にとり裨益が少なくない。これらについて賛否両論はあるかもしれないが、例えば OED の記述に反対する場合は、それなりの典拠が必要だろう。OED といえども完璧ではなく、初出年代の前後することはある。ただし、その場合は、実際の文献と年代とを引いて、実証的に示すことが必要になる。

日頃、翻訳書の妙ちくりんな日本語に辟易している人や、ボブ・ディランは難解ではないなどと説く輩に眉を顰めている人には、腑に落ちるところが多いだろう。今の言葉が唐突に感じる人のために説明すると、翻訳書を読んでいて文章が分らないときに原著にあたると、訳者の文法的理解が間違っていることがある。ディランが難解でないという人は、シェークスピアより古い文法をディランが時に用いていることを知らない。


岩波文庫『紫禁城の黄昏』(1989)

原著は R.F.ジョンストン (Reginald F. Johnston) による 'Twilight in the Forbidden City' (1934)、訳者は入江曜子と春名徹である(下)。現在は「品切れ」となっているが、古書で入手できる。

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岩波文庫には文法的理解の間違いによる誤訳があるという印象を持つ人でも、本書ほどの誤訳はめったに見ないだろう。おそらく、誤訳であることは周知されていると思われるが、絶版にしないのはそれなりの理由があるのかもしれない。

誤訳といっても、ミスは単純で、the last ... という普通の慣用的表現を、知ってか知らずか、逆の意に訳していることである。そのことが及ぼした歴史的に重大な事態について述べるのは本稿の目的でないので割愛する。

岩波書店の校正はりっぱな人びとが務めておられるだろうし、この程度の原文が読めない人びとではあるまい。なのに、いまだにこの本が絶版になっていないのは、なにか意図のようなものがあると勘ぐられても仕方ない。

本書では、この誤訳について、〈溥儀が「世界中で絶対に頼ろうと思わない人物」が蒋介石と張学良なのである〉のに対し、訳文では「世界中で一番最後に頼る人物」と反対に訳していると指摘している。


新思索社『マレー諸島』(1991)

原著は A. R. Wallace の 'The Malay Archipelago' (1869)、訳者は宮田彬である (下の写真は1995年の第2版)。

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1991年の版について、普通の仮定法(叙想法)の表現が逆の意味になっていることを本書は指摘している。

これも、誤訳といっても、ごく普通の仮定法の表現 had I but courage を「勇気さえあったなら」と取らずに「勇気がなかった」と訳し、結果的に航海に出かけなかったことになった。つまり、実際は航海に出かけたのだが、それとは逆になったというだけのことである。

本書によると、同訳書の他の部分は良心的に訳されており、索引や注釈が充実しているというから、惜しい点であった。

しかし、一般的に言って、この種の仮定法にからむ表現は、驚くほど誤訳が多いというのが評者の実感である。おそらく、翻訳者は仮定法について真剣に考えたことがないのではないかと思われるくらい意識が薄い。

とはいえ、本書には、細江逸記著『英文法汎論』(篠崎書林) を読んで初めて本当によく仮定法(叙想法)のことが分ったとも書いてある。それだけ仮定法(叙想法)は奥が深いといえる。

以上2つの例から言えるのは、誤訳はごく単純なミスから生じていることが意外に多いということだ。真反対の結果を導いているので、責任は重大だが。ともかく、そのミスは、何日も解釈をめぐってうんうんうなるような、とてつもない難解な箇所をめぐって生じているわけではないということである。余計なことだが、そういうレベルの難解な表現が出てくるのは、評者の知る限りでは、限られた書き手の場合だけだ。シェーマス・ヒーニやボブ・ディランはそれに含まれる。シェークスピアももちろんそれに含まれるけれども、すでに300年以上の研究の蓄積があるので、大抵の問題は判っている。

翻訳以外の問題で、特に印象に残った点をすこし挙げる。


ミネルヴァ書房『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002)

「365. 文献学の威力——『マックス・ヴェーバーの犯罪』を読んで」は羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪』(2002)を紹介する (下)。副題は〈『倫理』論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊〉とある。

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「ヴェーバーの言うプロテスタンティズムの倫理観の基礎をなすのは、ルターが聖書訳に使ったBeruf (=calling) の概念である。ところがルターの原本にはその単語がその場所に使われていなかった」という。おもしろいのは、ヴェーバーが嘘をついているのを発見したのが、トイレの中でヴェーバーの岩波文庫版を読んでいた羽入夫人だったということである。原本に当たるべしという文献学の基本と、学者にとって得難き宝は奥さんであることとを如実に物語る。

もう一つ、文法に関わる「368. 成功者を出せる英語教育を」は、「書く英語には伝統文法が絶対に必要だ」と説く。文法の「規則が厳存しているのに、文法不要論の英語ばかり教えるのは、犯罪的ではないだろうか」と力説する。

ここでの「書く英語」とは、「外国の大学でも通用するような本や論文」や、大学院で書く英語論文などを指している。そのための手引きの一つとして、アメリカ心理学会 (American Psychological Association) の論文執筆用の文法マニュアルが挙げられている。そのマニュアルでは、「厳格なまでに伝統文法のルールを守ることを求めている」という。


Style Manual

本書に書かれているのはそこまでだが、すこし補足しておく。

アメリカ心理学会の style manual は、現在は本の形で出ている (下)。

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これ以外に、日本でも英文学分野などで用いられているものに MLA の style manual がある (下)。

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これ以外にもいくつか style manual があるが、評者の個人的好みは英国の Modern Humanities Research Association のもので、現在は オンラインで公開されている (下)。

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#書評 #英文法 #ヴェーバー #文献学

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