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白くてねむい写真が多い

白くてねむいは日本的作風? それとも?

勉強も兼ねて写真のSNSなどでポートレート作品をあてもなくどんどんサーフィンして見ていくのが好きです。
ここで、日本の様々なフォトグラファーが撮る女性被写体のポートレート作品を見ていると「ねむい」感じの写真がとても多いといった共通点が見えてきます。

作風として必要で意図しているならそれも良いのでしょうが、明らかにピンがどこに合っているかわからなかったり、単に肌感をごまかすために薄ぼやけたものも多く混じり込んでくるので「そういう需要があってのことだろうか、いや単なるヘタなだけなんだろうか」など気になってきます。
また、白くとばしすぎてバハムートの吐くギガフレアに巻き込まれたのだろうかというぐらいのハレーション感がすごい写真もよく目にします。

結局のところは被写体をどう捉えて、画として表現するかってことなのですが一様にそういった演出の写真が溢れているのはなんとなく違和感です。
そういう表現のトレンドや需要があるのでしょうけど、それが「ただひとつの答え」みたいな感じでまとまってしまうのは面白味がないですね。
写真は、撮るために同じ装置を使っても「撮る人」と「撮られる人」の個性が様々だからこそ作品性が成り立っているのではないでしょうか。

海外の写真も見てみた

ここで、海外のフォトグラファーは人物をどう撮っているのかと見渡してみますと、今度はエグいぐらいにシャープネスが効いていたり「構造物のように明瞭」なものが目立って見えてきて日本とは真逆ですね。
綺麗なモデルさんですけどもなんだかアンドロイドのようになってしまったり、柔和な表情に険しさ映り込んだりとギャップがすごいです。
たまに度を超えていて「写ってる人が全員ピューリッツァー賞で見るような顔だ」なんてショックを覚えることもあります。

やり過ぎはだめですが「メリハリ」のある表現は「人物の写真」という意味でのポートレート作品にとっては良い効果があると思います。
作風が明瞭になり人物を描ききるので、なぜそのモデルがそこに起用されたのか腹落ちしやすくなります。モデルが持つ要素や印象、身に着けているものの質感や空気感を欠落させずに伝えてくれるでしょう。
そういう意味で似たり寄ったりな白くてねむい写真を量産するよりは、しっかりしたものを撮ったほうが作品性は高まるんじゃないかという考えです。

「好みの問題」っていってしまえばそこまでか

単なる好みだけのことなんでしょうが、見てるだけで本当に眠くなってくる「ねむい」写真よりは、パキッとした主張するものを撮りたい衝動に駆られます。
たぶん、わたくしは強度近視と乱視の複合で肉眼の世界が「常時ねむい」ので写真ぐらいはクリアな視界にしたいってことなんだと思います。
当然のことですが人の数だけ感性があり、その人なりの答えがあるのでそれは尊重しなければいけないと思います。
自分にわからない感性は、純粋に「わからない」と片付ければよいのであってSNSなどで他人の作品に点数づけのようなコメントをするのはよくないことです。単に見ているだけなら評価し合う関係ではないです。

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表現として必要があれば白くてねむい感じの写真も撮ってます。
モデル:ノグチユキ・進藤渉(敬称略)


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