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人は裏切る。それを知ったのは中学二年生の時だった。不思議なもので、それを知ってから多く裏切られるようになった気がする。

小説や映画やドラマでの悪役は「悪役」という生き物として生を受けた存在なのだと捉えていた。それは、「先生」や「店員さん」を、それぞれ「先生」「店員さん」という無機質な存在として捉えているのと少し似ている。悪意は「悪役」にだけ潜んでいて、まさか自分の隣でにこやかに笑う友人に潜んでいるとは考えもしなかった。

気付けば私は、かつて友人だった彼女たちに虐められていた。衝撃的であった。思春期とは、その人の性質が変わりやすい時期だ。私が「人が変わる瞬間」を見たのはこれが初めてだった。人には悪意が潜んでいる。一番仲の良い友人であっても。もしかしたら私にも。私の隣に立つ友人が、そして私自身が将来の「悪役」なのかもしれない。それに気付いた時、私は「悪役」を許せない人間に変わった。思春期とは、その人の性質が変わりやすい時期なのだ。

塾で働く私は誰かにとっての「先生」になり、本屋でも働いている私は誰かにとっての「店員さん」になった。だからこそ、「先生」「店員さん」は無機質ではないことを知っている。だけれど、どこまでも「悪役」は「悪役」という存在だとしか捉えられない。思春期でのいじめがトラウマなのかもしれない。一度でも、その人に自分が傷つけられたらその人を「悪役」としか捉えられない。どれだけその人のことを知っていても、どれだけその人から助けられた経験があれど、その人の持つ、私に向けられた悪意に気がついた途端、「悪役」という生物になってしまう。

あの頃虐められていた人たちのうちの何人かが、あの頃虐めていた人たちと一緒に遊んでいるのをインスタのストーリーで見かける度に、どうしてあの子は彼女たちを許せるのだろうかと不思議になる。あれから多くの悪意に触れてきた。多くの人が「悪役」になった。「悪役」を許せない私は、悪意に触れれば触れるほど孤独になっていった。思春期でなくたって、人は変わることができる。虐めていた人たちも、悪役ではなくなったのかもしれない。虐められていた人たちも、被害者ではなくなったのかもしれない。私は現在がどの過去より孤独な人生を更新し続け、被害者としての自分に固執している。私はまだ、あれから変わることが出来ないでいる。

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