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【米大統領列伝】第五回 ジェームズ・モンロー大統領(後編)

はじめに

 告知通り、後編では二期目(1821-1825)でジェームズ・モンローが何をした大統領か追っていきたいと思います。

閣僚編成

副大統領 ダニエル・トンプキンズ(継続–1825)
国務長官 ジョン・クィンシー・アダムズ(継続–1825年)
財務長官 ウィリアム・クロウフォード(継続–1825年)
陸軍長官 ジョン・カルフーン(継続–1825年)
司法長官 ウィリアム・ワート(継続–1825年)
郵政長官 リターン・ジョナサン・メグズ(継続–1823年)
     ジョン・マクレーン(1823年–1825年)
海軍長官 スミス・トンプソン(継続–1823年)
     サミュエル・サウサード(1823年–1825年)

内政政策

 ミズーリ妥協で南北州で揉めることが何度かあったが、まだ大きな問題に発展することはなかった。テキサス入植が始まった時代でもある。

軍事・外交

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クアハディ・コマンチェ族の最後の酋長クアナの写真

 軍事面では、テキサスのインディアン戦争と呼ばれる1820-1875年まで続く一連の原住民との紛争が起きていた。メキシコ領テキサス(1836年までメキシコ領)への開拓者受け入れが始まった頃に起きたコマンチェ族との対立に始まった戦いになります。他にも、アリカラ戦争と呼ばれる原住民のアリカラ族との戦いが、現在のサウス・ダコダ州に面するミシシッピ川で発生した。

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モンロー・ドクトリンの風刺画に映るサムおじさん

 外交面では、ジョン・クインシー・アダムズがほとんどの文章作成したモンロー政権の外交方針であるモンロー・ドクトリンが作られた。モンロー・ドクトリンの基本方針として、米国が米大陸以外に介入しない代わりに、欧州が米大陸に介入しないことをお願いする内容になります。実際の効力として、欧州の国々から介入はあったので、外交面での圧力にはならなかったと言える。ロシア帝国も太平洋沿岸の北緯51度線まで南下し、欧州は南米で植民地の回復を画策した。しかし、圧力はなくても、英国と米国の協力関係により、ロシア北緯54度線まで外交で押し返すことに成功しました。法的根拠として、米国側の1824年米ロ条約及び、英国側の1825年英ロ条約(サンクトペテルブルク条約とも呼ばれる)

補足:モンロー主義と呼ばれる米大陸内での活動に専念する考えは、太平洋進出後も米国に根ずくことになり、海外での紛争・戦争が泥沼化した時に唱える人が近年多い。

 尚、英国は欧州の南米植民地の回復の動きに対し、米国と共同声明を上げようとしたが、ジョン・クインシー・アダムズの助言で英国の助力を受けないことを選びました。

補足:トマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソン元大統領は、案を受け入れるべきだと主張していたが、こちらの意見は参考にされなかった。

移民政策・奴隷政策

移民政策

 1820年からメキシコ領テキサスへの開拓がはじまった。

奴隷政策

 特に大きな変化は見られなかった。

教育

 特に大きな変化は見られなかった。

経済

 特に大きな変化は見られなかったが、西部開拓に伴い、長い成長の時代に突入したことが言える。

大統領辞職後の動向

 大統領の任期終了後、バージニア大学のあるモンロー・ヒルに住むようになった。尚、バージニア大学は、かつてモンローが所有していた農場だった。バージニア大学では、客員理事を務めるなどした。ただ、金遣いの荒いモンローは経済的に困窮することになった。それでも、1825年の独立50周年記念では、ラファイエット公爵とジョン・クィンシー・アダムズ大統領を招くなどお金のかかるイベントは止めなかった。1830年に妻エリザベスが死去。翌年、モンローも追うように1831年7月4日に心不全と結核で死去。

補足:ジョン・アダムズ、トマス・ジェファーソンに次いで、3人目の独立記念日に死去した大統領になった。

 ニューヨークで埋葬されたが、1858年にバージニア州リッチモンドのハリウッド墓地にある大統領広場に改葬され、現在は国定歴史建造物に指定されてる。

あとがき

 今回でモンロー回終了です。私生活の金遣いの荒さが欠点なモンローでしたが、米国のこれから進むあらゆる経路依存を作った人物という印象が強い人物でした。次回は、ジョン・クインシー・アダムズ前編に入ります。

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