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【米大統領列伝】第二回 ジョン・アダムズ二代目大統領(前編)

はじめに

 予告通り、今回はジョン・アダムズです。前編では大統領に至るまでの話になります。

生い立ち

 ジョン・アダムズは1735年に現在のマサチューセッツ州クインシーにて3人兄弟の長男として誕生します。イングランド系移民の6世です。思想信条としてピューリタン的気質を持っていた。アダムズはハーバード大学に入り、卒業後は牧師になった。それでもキャリア選択に悩んだアダムズは弁護士になることを決め、1758年には法廷弁護士として認められます。尚、アダムズは少年時代からメモを書き留める習慣を持っていたことが事件の観察に有効に働いたとされます。

ゴールインするジョン・アダムズ(29歳)

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妻のアビゲイル・アダムズの肖像

 会衆派教会牧師ウィリアム・スミス師の娘であるアビゲイル・スミスと結婚します。前任のワシントンとは違い、アダムズは子作りが可能な健康状態だったため、死産を除いて、以下を生む。

長男 ジョン・クィンシー・アダムズ(1767年-1848年)←6代目大統領
長女 アビゲイル・アダムズ・スミス(1765年-1813年)
次男 チャールズ・アダムズ(1770年-1800年)
三男 トマス・ボイルストン・アダムズ(1772年-1832年)

妻アビゲイルは幼少期から病弱だったが、ジョン・アダムズとの恋文のやり取りを経て、結婚しました。独立戦争中はアダムズとの手紙のやり取りは時事問題に関する相談事が増えました。ただ、妻になった後もアビゲイルは乳がんになり、最終的には胸部を切断しても、全身に転移しており、非常に長く苦しんでました。最終的には腸チフスで妻アビゲイルは死去。ただ、6代目大統領のジョン・クィンシー・アダムズを産んだことは歴史的に重要な人物と位置付けられてもよいと思います。
 アダムズの父親像としては厳格で、ハーバード大学で酒に酔って裸になる等の風紀を乱す行為をした息子のチャールズを叱った記録があります。その時、アダムズは「学識のある者は酒などに飲まれない」と一喝しました。後に大統領になるジョン・クインシーが人生の早い段階で結婚を申し入れをしようとした時は考えなおすようにと言ったとされており、厳格な父親だったことは間違いないでしょう。

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アダムズの家紋

 アダムズ家そのものは米国政治に影響力を残す人物が多く、ワシントンの回の前編で出てきたサミュエル・アダムズも同じ家系です。(ビールの人)
ジョン・アダムズはサミュエル・アダムズと違い、人々を先導するようなリーダーシップは無かったが、本業の法関連の知識に長けていた。先例から学び、共和制の原理に対する理解なくして、米国建国時の法体系を整えるのは至難の業だったでしょう。ただ、喧嘩腰になりやすい一面がジョン・アダムズの傷と言える部分です。弁護士としては良いですが、政治家としては冷静さが求められるので、周囲からは煙たがられがちになってしまう。

独立戦争での立ち位置

 印紙法等の重税で課税を求める英国に対する国民感情を匿名で新聞に寄稿したジョン・アダムズの記事は後に「法令と封建法に関する論文」と呼ばれるものを作成します。主に英国側の課税の法的根拠や米国のプロテスタント的考え方を刺激したという内容です。

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「法令と封建法に関する論文」の表紙

 ボストン虐殺事件の際、法廷弁護士が案件を引き受けない事態が続いていた中、アダムズは自身の名誉が傷つく覚悟で案件を受けた。裁判の結果は6人無罪、2人過失致死罪で有罪という内容です。原告側は殺人罪の適応を求めたが、アダムズの弁護もあり、過失致死罪で済んだのです。尚、アダムズ本人は「弁護した中でも最も消耗し骨の折れる仕事だった」と日記に書き綴っていた。英国側の弁護をしたが、それでもマサチューセッツ議会の議員に選定された。
 ワシントンの前編でも登場した英国議会の課税権限の話がありますが、この法的な部分はアダムズが丁寧に英国擁護側の主張に対し、反論を行ってました。大陸会議時代は代議員として参加し、ワシントンを軍隊の司令長官に指名する等してました。

尚、独立宣言の議決で満場一致をさせる為、アダムズとベンジャミン・フランクリンは各植民地の代表を説得する為、直接会って説得した。このアダムズらの努力もあり、賛成12、反対0、棄権1(ニューヨークは棄権)という成果を出せた。言い換えれば、アダムズらの地道な努力によって、独立戦争に向けての手続きがなされたということです。

注:小ネタとして1776年9月11日に開催されたスタテン島和平協議にて、英国側のハウ司令官は休戦の条件として独立宣言撤回を要求したが、アダムズを含めた代表団は拒否したため、戦いは継続。

 フランスでベンジャミン・フランクリンがフランスの説得の為、フランスに滞在しながらも、成果の返答が遅く、状況を確認すべく、英国私掠船に襲われながらも、大西洋を越え、アダムズは訪仏します。そこでフランクリンが現地女性と戯れる姿を見て、呆れてました。ただ、フランスではフランクリンの対応の方が物事がうまく進み、アダムズの真面目さはフランスでの外交クラッシャー扱いでした。フランスから追い出されたアダムズはオランダにて戦争の借款協議をしていました。最初は半信半疑だったオランダの金貸し屋も戦争勝利の報告を聞きつけ、喜んで借款を出すと言いました。

注:この頃、アダムズと同行していた息子のジョン・クインシー・アダムズはまだ14歳という若さだったが、ロシアのサンクトペテルブルクで秘書として途中で別行動をさせました。この時のアダムズは国の大儀を果たす為の決意と犠牲について息子に語ったとされます。

この後、パリ会議に出席し、米国の国家承認がされる為の手続きを行いました。ただ、この辺りからジェファーソンが独立戦争の大儀を巡る考えの不一致が見え始めた頃でした。

政府に関する考え方 

 アダムズは1776年に『政府に関する考え方』を出版していて、そこからアダムズの「政府」についての考え方を覗けます。アダムズは良い政府を形成するには政治に社会的階級が存在する現実を受け入れる重要性を唱えてました。これは独立の機運が高まっていた当時の主流意見と異なるスタンスであり、英国憲法の価値は共和制に由来するとまで主張してました。アダムズの共和制の認識として、法治の国家であり、君主など人の国家ではない。議会の考えに関して、両院制を擁護し、単一議会のデメリットは人の愚かさからくるところにあるという考えです。尚、司法・立法・議会の三権の確立及び、分離も主張していて、合衆国憲法の制定で大きな役割を果たします。

奴隷制に関する考え

 独立宣言はトーマス・ジェファーソンが奴隷制反対の文言を原文に記載した為、その部分を巡っての議論が激化し、火消しをしたのが、アダムズです。建国の父たちは奴隷制プランテーションを持っている者たちが多く、分裂を防ぐ目的で文章から奴隷制解放の部分の削除した。アダムズ自身は奴隷を保有しておらず、奴隷を雇うことも拒否し、妻アビゲイルも反対していた。加えて、黒人兵士の使用にも反対し、政治で大きな問題にならないように配慮してました。

ワシントン政権の一期目と二期目の選挙について

 一期目の選挙時の候補の一人から始まりますが、候補者が多いので、軽くリスト化します。

連邦主義者
・ジョン・アダムズ 駐英大使
・ジョン・ジェイ アメリカ合衆国外務長官
・ジョン・ラトリッジ 前サウスカロライナ州知事
・ジョン・ハンコック マサチューセッツ州知事
・サミュエル・ハンティントン コネチカット州知事
・ベンジャミン・リンカーン マサチューセッツ州副知事
・ジェームズ・アームストロング 代議員
・ロバート・H・ハリソン 裁判官
・ジョン・ミルトン ジョージア州州務長官

反連邦主義者
・ジョージ・クリントン ニューヨーク州知事
・エドワード・テルフェア 前ジョージア州知事

連邦主義者と反連邦主義者の違いは合衆国憲法の施行を支持するかしないかです。最初の選挙であり、まだ党が存在しておらず、連邦主義者と反連邦主義者が副大統領の座を巡って選挙で競いました。連邦主義者のジョン・アダムズは選挙人数34名を確保し、副大統領になります。

 二期目の選挙時の候補の一人ですが、前回より候補者が少ない。リストは以下の通りです。

連邦党
ジョン・アダムズ 副大統領

民主共和党
ジョージ・クリントン ニューヨーク州知事
トーマス・ジェファーソン 国務長官
アーロン・バー 上院議員

二回目となる選挙になるまでに党が形成され、副大統領の座は党出身者が巡って、争う形に変わります。連邦党のジョン・アダムズは選挙人数77名を確保し、副大統領になります。

注:名前と功績が知れたアダムズは選挙で何かしらの役職になれましたが、妻アビゲイルは副大統領以外を許可しなかった。元々、合衆国憲法制定と戦争勝後の手続きを終えた後に引退し、隠居生活を送るつもりでした。

ジョージ・ワシントンの副大統領として

 まず、一年目は大統領の公式称号に関する議論で「アメリカ合衆国大統領」が決まるが、アダムズは「大統領閣下」や「殿下」を推していた。姿勢の尊大さや体系が小太りしていたことから「肥満様(His Rotundity)」と周囲から呼ばれることになる。
 上院議長として、過去最多となる29回の決議票(31回という主張もある)を投じます。

注:決議票とは賛否数が同じ人数の時に投じられる奇数票。

ワシントン大統領の権限を守り、助言を行ったりする副大統領の仕事をこなしてました。尚、首都建設地の選定にも影響を与えます。ハミルトンらの連邦党とジェファーソンらの民主共和党が形成された際、連邦党に入ったアダムズだったが、常にハミルトンとジェファーソンの対立を巡り、中立的な立場で場をまとめてました。尚、法律が得意なのに、ワシントンがアダムズに法律の相談しないことに不満を漏らしてました。

ハミルトンとジェファーソンの議論の妥協点を探るアダムズを現した映像

対抗馬が存在する初の米大統領選挙と党派の台頭

 第三回目となる米大統領選挙ではワシントンは出馬しない意向を示したことで、連邦党候補と民主共和党候補を巡る戦いになりました。立候補者は以下の通りです。

連邦党
・ジョン・アダムズ 副大統領
・トマス・ピンクニー 元駐フランス大使
・オリバー・エルスワース 合衆国最高裁判所主席判事
・ジョン・ジェイ ニューヨーク州知事
・ジェイムズ・アイアデル 合衆国最高裁判所陪席判事
・サミュエル・ジョンストン 前上院議員
・チャールズ・コーツワース・ピンクニー 駐フランス大使

民主共和党
・トマス・ジェファーソン 元国務長官
・アーロン・バー 上院議員
・サミュエル・アダムズ マサチューセッツ州知事
・ジョージ・クリントン 元ニューヨーク州知事
・ジョン・ヘンリー 上院議員

注:小ネタとしてワシントンは立候補していないのに、誰かがワシントンに選挙人票を投じられた記録がある。

今回の選挙は主に連邦党ジョン・アダムズと民主共和党トマス・ジェファーソンが勝負する形になり、僅差でジョン・アダムズが勝利しました。連邦党のジョン・アダムズは選挙人数71名を確保し、大統領になります。尚、副大統領は同じ連邦党のトマス・ピンクニーではなく、選挙人獲得数が二位だったトマス・ジェファーソンが選ばれた。

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注:この時代はまだ副大統領候補制度が合衆国憲法修正第12条(1804年)で確立する前の話ですので、対立関係にある党のジェファーソンが副大統領になってしまった。

大統領就任式

 大統領就任式はフェデラル・ホールで行われた。

注:ホワイトハウスはまだ建設中

アダムズは共和国を合衆国憲法の元、人々の要望に応え、州の場所(北部南部)問わず、平等に対処し、多くの政治意見を聞いていくと伝えます。他に、交易や外交関係の改善にも対応することや宗教の精神面での下支えにキリスト教徒に敬意を示す公務を行うことを伝えます。

注:大幅にスピーチ内容を端折ったので、全文を見たい人は以下のリンクから

アダムズ英国大使の小ネタ

・ヨーロッパに赴き、初代在英国大使だったのがジョン・アダムズであり、長い期間を経て、1976年7月7日にエリザベス2世が「ジョン・アダムズは、私の先祖であるジョージ3世に「我々2国の国民の間に古い良き性格と古い良きユーモア」を取り戻せるようにするのが望みだと言った。その回復は長い間になされ、言語、伝統および人的結びつきがそれを維持してきた」と述べることが後世にあった。

全文は以下の通りです。

Mr. President, thank you for your welcome to us. We are very pleased to be with you and the American people in this most important week of your Bicentennial Year.

Our countries have a great deal in common. The early British settlers created here a society that owes much to its origins across the ocean. For nearly 170 years there was a formal constitutional link between us. Your Declaration of Independence broke that link, but it did not for long break our friendship.

John Adams, America's first Ambassador, said to my ancestor, King George III, that it was his desire to help with the restoration of "the old good nature and the old good humor between our peoples." That restoration has long been made, and the links of language, tradition, and personal contact have maintained it.

Yesterday, Prince Philip and I were deeply moved by the welcome we were given in Philadelphia. And now we are looking forward to our time in Washington and to our visits to New York and Boston and to the home of Thomas Jefferson at Monticello. We shall have visited the four cities that were at the center of events 200 years ago. We also hope to see something of America' of 1976 and of the young people who will be taking this country forward into its third century.

Mr. President, the British and American people are as close today as two peoples have ever been. We see you as our strong and trusted friend, and we believe that you, in turn, will find us as ready as ever to bear our full share in defending the values in which we both believe.
That is why we are so happy to be here.

あとがき

ジョン・アダムズについての前編はいかがでしょうか?書いてて痛感したことはアダムズが真人間だったことです。周囲が揉めても、妥協点を見つける努力をし、敵対国であっても、良い部分を吸収しようとする姿が印象的でした。次回は後編でジョン・アダムズが大統領として何をしたか?や大統領辞任後の隠居生活の内容になります。



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