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平和をつくるのは私たち一人ひとり

79年前の今日、日本は終戦を迎えました。

終戦記念日などではない、敗戦だ、負けたのだ。キレイごとにするな。そういう方もおられます。
体験者でもない私が言うのも何ですが、戦争に勝ちも負けもなく誰もが身体にも心にも傷を負って、その傷とともにその後の人生を生きていくのだと思うのです。
戦争は人間を苦しめるだけ、悲しませるだけ。何も良いことはない、そう思うのです。

今でこそ、PTSDという言葉で周囲は理解を示すようになりつつあります。
命が助かり、せっかく祖国に還ったにもかかわらず、些細なことがきっかけとなり、まるで戦地にいるかのような戦慄が蘇ってしまう。
そんな痛ましい元兵士の姿をネットで見たことはありませんか? 
動画サイトにもたくさん上がっています。

日本でもかつて、多くの男性方は、そのような苦しみを孤独の中で味わっていたのです。
何も語らず、働きもせず、どうしようもない人間と見られていたのです。別人のようになってしまった男性方の、心の中を理解できる人は少なかったのです。

NHKの朝ドラ「虎に翼」では、戦後多くの日本人が抱えてきた哀しみを丁寧に描いています。

一人ひとりが、たくさんの哀しみを抱えながら、歯を食いしばって、あきらめずに、そしてお互いを思いやって生き抜いてきたのだなと、それがあっての今の私たちの時代があるのだなと、毎日を大切に生きていこう。そう思わずにはいられないのです。

子どもの頃、戦争の体験談を、父も母も聞かせてくれました。
子ども心に、苦しい話を聞かされるのは楽しいことではなくて、「ああ、また始まった」という感じでやり過ごしていたことを、今になって後悔しています。もう二度とその話を聞くことは叶わないのですから。

父は、東京大空襲のとき中学生でした。
茨城に住む親戚は東京の空が真っ赤に燃えているのを見たそうです。
そして、リヤカーに食糧などを積んで徒歩で東京まで向かい、父の家族を探し当ててくれたそうです。家財道具全て焼かれ、それでも家族は生きていた。そこから這い上がってきたということです。日本中でそのような家族は当たり前にいたといいます。

母は横須賀に住んでいて、軍港があったために幾度となく空襲に見舞われました。
何度目かの空襲で、家財道具は全て焼かれてしまい、焼け跡にバラックを建てて、暮らしたそうです。冬、バラックの中に置いていたコップの水が凍っていて、それくらい寒かったと。お腹がすいて、すいて、何もないと分かっていても、何かないかなと。質素な家の中でいつも食べ物を探していたと言います。

母が一度だけ話してくれたことがあります。
空襲で逃げ惑うとき、目の前に赤ちゃんをおんぶした女性がいたそうです。けれども、背中の赤ちゃんは焼け落ちてくる建物の破片か何かにあたったのでしょう、頭がだらりと下がって既に息はなかったそうです。必死に逃げるそのお母さんは、我が子の死に気づいていない様子だったと言います。

まだ小学生だった母は、恐らく人の死を何度も目撃してきたのかもしれません。
だからでしょうか、平和な時代になってからも、普通の旅客機が上空を飛んでくる音が聞こえてくると、「B29の音みたいで心臓が苦しくなる」と言っていました。毎回です。それは亡くなるときまで変わることはありませんでした。
PTSDは兵士だけが抱えるものではないということなのだと思います。

私は、平和な時代に平和な日本に生まれてきて幸せ者だと思っていました。
このまま、世界は平和になるのだと信じていました。
けれども、娘が生まれたその年に911が起きたのです。
世界は再び大きな戦争が起きる危機に向かい始めました。そして今や、核戦争の危機さえも。

平和はどこかの国や、誰か、リーダーが作るものではなくて、一人ひとりが作り上げていくものだと信じています。ルールを作ったとしても、組織を作ったとしても、人びとの心が変わらなければ、そのルールはすぐに形骸化してしまうでしょう。

何が本当に大切なのか、どうすることが平和な未来をつくっていくことになるのか。もう一人ひとりの心では分かっているのだと思います。
対立し、争い合うことよりも、分かち合い、支え合い、生かし合う未来を。

8月15日の酷暑の中で静かに祈ります。

2024年8月15日正午 東京にて


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