見出し画像

『研究史 金印〈漢委奴国王印〉』ノート

大谷光男著
吉川弘文館

 漢委奴国王印は、江戸時代の天明4(1784)年2月23日(今日の暦では4月12日)、筑前国那珂郡志賀島村東南部叶崎(現在の福岡県福岡市東区志賀島)で出土したほぼ純金製(※)の王印である。
 甚兵衛という農民が自身の所有する水田で農作業中に発見したといわれ、それを隣村の庄屋の長谷川武蔵が甚兵衛の口述を筆記し(口上書は現存)、郡宰(地方支配の役職名)を通じて、当時の筑前藩主黒田藩に提出したという。しかし、この口上書には金印発見の状況が具体的かつ正確には記述されていないので、いろんな説を生むことになる。
(※1989年に行われた蛍光X線照射による分析では、金の含有量は約95%)

「漢委奴國王」は一般的には、「かんのわのなのこくおう」と読まれている。解釈により読み方にも多くの異説があるが、ここでそれらに触れる余裕はない。

 昭和6(1931)年12月14日に国宝保存法に基づく国宝、昭和29(1954)年3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されており、昭和53(1978)年に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に所蔵されている。

 それまで真正のものと思われていたこの金印に偽物説があるということを、筆者は他の本(『金印偽造事件』三浦佑之著 幻冬舎新書)で知り、筆者が敬愛する在野の古代史研究家の方にお話をしたところ、それについて研究書があるとご教示いただき、この本を送っていただいた。

 九州本土から海の中道でつながる志賀島の南端の出土地と推定された場所には、「漢委奴国王金印発光之処」の石碑が大正11(1922)年に建立され、今は金印公園となっている。しかし発見場所はここではあり得ないという説もある。
ちなみに志賀島の地名は、『万葉集』(奈良時代末期)や『日本三代実録』(平安時代)などにその地名が出てきており、相当古い時代から知られている。

 偽物説の根拠にはいくつかあるようで、まずは発見者の甚兵衛という農民の実在の記録がほとんど見当たらないことがある。
 また金印の発見者は甚兵衛ではないという資料もあるが、それは金印の真偽には影響しないものといえよう。

 さらにこれほどまでに貴重な金印がなぜ九州本土から離れた島(当時は干潮時には地続きとなっていた)の水田で発見されたのかという事に関連して、出土地点の場所についても、そこに棄てられていたという「遺棄説」、「漂着説」、「紛失説」、「隠蔽説」、「墳墓説」などがあるが、確定はしていない。

 黒田藩の学者であった亀井南冥は、「漢委奴國王」の印影から、5世紀の『後漢書』東夷伝に出てくる金印であると指摘し、南冥はこの功績で黒田藩校の館長という地位を固めた。しかし、後に失脚したこともあり、南冥自身が偽作者ではないかと疑われたことにより失脚したのではないかとの憶測を生んでいる。

 中国の正史『後漢書』の東夷伝には、1~2世紀の倭国の状況が書かれており、建武中元二(西暦57)年に、漢の光武帝が倭奴国王に「印綬」を与えたことが書かれている。

 ある学者はこの金印の文字、並びにその文字列の形式や彫り方について、後漢の規定にそぐわないと指摘し、これは公印ではなく私印であろうという説を唱えていたが、後にその自説を撤回し、真印説を主張されるに至っている。
 さらには、偽作説もある。偽作説は発見された当初からあったのだが、天保7(1836)年には、表だって偽作説を唱えた学者もおり、その金印に①「之璽」「之章」ともないこと、②鋳物でないこと、③漢の字がついていることの3点から金印偽作説の根拠とした。
 また昭和26年には文部技官が彫刻法の違い(薬研堀と箱彫式)を大きな根拠として偽作説を唱えた。
 一方、ある学者はこの志賀島出土の金印を、実存する漢印である「滇(てん)王之印」と比較して、「字法章法則法すべての面からみて、後漢初期の典型的作法で、少しく漢印の知識のあるものにとっては、この印が後世の模作であるなどという妄説は到底信じがたい」と断言している。

 このようにこの金印を巡って様々な説が跋扈しているが、この本の著者である大谷光男は、この金印の寸法を根拠に、後漢の光武帝が倭奴国王に与えたといわれる「印綬」そのものであろうと判断している。
 金印の測定値は2・347センチメートルであり、この寸法は後漢の一寸(2・35センチメートル)とほぼ同じであり、その寸法が当時わが国に伝わっている可能性はなく、この寸法の一致を真贋判断の一つの根拠としている。
そして大谷光男は、今後の金印そのものの科学的研究や発見地点の考古学的研究が待たれると結んでいる。

 日本の古代の歴史に登場するもう一つの金印である「親魏倭王」の金印が、卑弥呼の墳墓と擬せられている奈良県の箸墓古墳から出土すれば、箸墓は卑弥呼の墓であることはほぼ確定するが、箸墓は宮内庁管理下の陵墓となっており、発掘調査等は認められていない。
 いずれにしても、邪馬台国の在処と同じく、金印の真偽未確定問題や未発見の金印の存在が古代史のロマンと想像力を一層かき立てるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?