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『日ソ戦争』ノート

麻田雅文著
中公新書

 日ソ戦争は、日露戦争(1904年2月6日~1905年9月5日)のことではない。第2次世界大戦末期、ソ連は日ソ不可侵(中立)条約を破棄して、関東軍が実質支配する満州国などに攻め入った戦争のことである。いまだ正式な名称はないので、著者は「日ソ戦争」と名付けた。

 1945年8月8日、ソ連は日本に対して宣戦布告し、翌日未明およそ150万人のソ連軍が満州国境を越えて侵攻した。この4か月前に条約の延長を拒否する旨の通告がソ連側からあったが、条約では破棄通告は1年前とされており、条約が無効になるのはまだ先だと考えていたので、日本にとっては不意打ちであった。
 そして9月上旬まで満州国、日本領であった朝鮮半島、南樺太、千島列島で日ソ両軍が闘った。わずか一か月あまりではあったが、日ソ両軍の参戦兵力は日本軍が100万人超、ソ連軍は約185万人に及び、第二次世界大戦最後の全面戦争であった。
 地域によっては8月15日の玉音放送のあとでも、関東軍は、天皇の正式の命令(大陸命)が出ていないという理由で戦闘が続いた。関東軍上層部でも、終戦を知っていながらそれを無視したり、謀略だという者までおり、戦闘行動は継続されたのである。

 1945年8月14日の午後11時、ポツダム宣言受諾の用意があると日本政府はスイス政府を通じてアメリカ政府に伝え、さらにはアメリカ政府から英国、中国、ソ連に伝達してもらうよう東郷外相は加瀬俊一駐スイス公使に指示をした。
アメリカはこれに応じて停戦を決め、8月15日正午には天皇陛下の「終戦の詔勅」いわゆる玉音放送がラジオで流れ、正午以降、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官の命令で米軍の攻撃は停止された。
 そしてマッカーサーは、ソ連のアントーノフ参謀総長に日本軍への攻撃を停止するよう文書で求めたが、アントーノフは、戦闘を停止するかどうかはソ連軍最高司令官のスターリンが決めると拒否をした。米英との戦争は終わったが、ソ連は停戦に応じることはなかったのである。

 それ以前にも大本営や関東軍の一部では、ロシアが侵攻準備をしているという情報もつかんでいたが、ソ連軍の侵攻はないと楽観視する向きもあり、日本政府や軍部としては、誰もソ連との開戦を予想だにせず、戦争終結の仲介をソ連に頼んでいたほどであった。
 ましてや終戦後、57万人以上といわれる民間人(女性を含む)や兵士たちがシベリアへ送られ、厳しい寒さの中、満足な食料も与えられずに過酷な労働を強いられ、多大な犠牲者を出すなど想像もしていなかった。
 ちなみにシベリア抑留の全容はいまだ解明されておらず、犠牲者数も正確にはわかっていない。

 結局ソ連が停戦に応じたのは8月18日であった。しかし、その後も占領地の確保に重点を置き、各地でソ連軍は侵攻を止めることはしなかった。ヤルタ会談で合意した利権を確実に手に入れるのがソ連の最大の目標であったからだ。それが今に続く北方領土の帰属問題である。その点が、日本の無条件降伏をゴールとし、それを実現してからは流血を避けた米軍とは大きく異なるところであり、原爆を開発・使用した米国とソ連の間の、大戦後を見据えた主導権争いの一端であった。
 9月5日には、ソ連軍は歯舞群島を占領し終えた。

 いまロシアでは、日ソ戦争の戦史研究が盛んだという。それによるとソ連の参戦は米国と英国の要請に基づいた正当な行動であり、アメリカの原爆投下よりもソ連の参戦が日本の降伏により大きな役割を果たしたというロシアの基本的認識からの研究であり、それがより正確な戦史研究を制約していると著者はいう。

 またこれまでわが国で日ソ戦争の研究が深化してこなかった理由に、公文書の問題がある。日本側は敗戦前後に膨大な公文書を破棄した。一方、ソ連側には当時の公文書が大量に残っているが、閲覧には大きな制限がかけられている。
 またソ連軍は占領した各地で、廃棄される前の日本軍の公文書を戦利品として持ち去っている。
 一方、日本側の研究は、政府関係者や軍人などの回想記などの私的文書に頼るしか方法はなく、研究の進展には限界があった。

 当時、関東軍には、ソ連軍を歓迎する向きもあったという。その理由の一つは、日本軍はソ連領土を侵略していないからソ連も侵攻しないであろうという楽観的な見方があった。また満州国にいた民間人は、関東軍の過酷な支配に抗してきた現地人からの報復を極度に恐れて警戒しており、むしろソ連軍が来てよかったという気持ちさえあったという。しかし、それは淡い期待であり、実際は略奪や婦女子への暴行事件が頻発し、関東軍に見放された日本人は、多くの命を失い、命からがら逃げ帰った人も多い。のちの中国残留孤児問題もこの日ソ戦争に起因する。

 1932年に関東軍の指導で始まった満州への農業移民は、満州国の治安対策のための屯田兵であり、1929年の世界恐慌の煽りで貧困に喘ぐ農民の救済の役割も担っていた。そして1936年、広田弘毅内閣は満州への100万戸移民計画を国策にした。

(この国策の詳細については2023年2月、加藤聖文の『満蒙開拓団』が、移民の計画から終局までをたどる初の通史として、岩波現代文庫から刊行されているのでご興味のある方はお読みいただきたい。)

 さらに、この日ソ戦争を捉える視点として重要なのは、この戦争が日露戦争の復讐戦争というソ連側のプロパガンダである。
 対独戦を大きな犠牲を払って勝利したソ連国民にとっては、日本との戦争は奮い立つ戦争ではなかった。日本がソ連領土を侵犯してわけでもなく、4年間中立を守った日本相手では切迫感がなかったのである。
 そこでスターリンは、国民に向けてこの日本との戦争を正当化するために、ラジオで次のような演説をする。
「40年間、われわれ古い世代のものはこの日を待っていた。そして。ここにその日は訪れた」と。
 このようにスターリンは日露戦争の復讐を果たしたということを強調した。かつてレーニンは、「旅順の陥落は、ツァーリズムのもろもろの罪悪への大きな歴史的総決算の一つ」(趣意)と、日露戦争におけるロシア帝国軍の敗北をむしろ喜んだにも拘わらず、だ。

 このほか、樺太南部、千島列島から北海道の占領に関する米ソの交渉経過も記述されており、筆者は初めてその内容を知ることができた。

 本書は、日ソ戦争の詳細な経過を追ってその全貌について、一部公開されたロシアの史料やアメリカの史料などを元に詳述しており、今に続く日露関係の複雑さの根元が明らかにされている。
 
 なおこの著者には『シベリア出兵』(中公新書)などの著作もあり、その研究成果は注目に値する。

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