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『小さき者たちの』ノート

松村圭一郎著
ミシマ社刊

「歴史の教科書に出てくるのも、英雄や偉人たちばかりだ。皇帝とか、国王とか、将軍とか。でも、そんな歴史に名を残した人たちだけでこの世界を動かしてきたのだろうか。彼らの住むところや着るもの、食べるものは、いったいだれがつくったのか。その『偉業』を可能にし、生活を支えたのはどこのだれなのか。」(P4「はじめに」より)

 松村圭一郎は1975年生まれ。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有や分配、貧困と開発援助、海外出稼ぎ、市場と国家などについて研究している文化人類学者である。
 著者は、エチオピアでのフィールドワークを通して、ずいぶん遠回りをして、ようやく自分が生まれ育った熊本で重ねられた営みの歴史に目を向けることができたという。(P201「おわりに」)

 この本で著者は、水俣に生まれ生きて、水俣病に人生を、命を奪われた人たちを取り上げ、貧困のどん底のなかで、人間の尊厳を奪われ、日々の命を繋ぐのに精一杯だった人たちに焦点をあてている。

 最初の〈はたらく〉の章は、石牟礼道子の自伝的小説『椿の海の記』の引用から始まる。
「これまでの事業の信用のあればこそ、人さまが名を重うしてくるる。我がふところは損をしても、事業の恥はぜったいに残しとらん。人は一代名は末代、信用仕事じゃこれは」。
 石牟礼の祖父の松太郎は石工の棟梁として建築や墓につかう石を発掘したり、石山を開いたりして「石の神様」と称される人物だった。
 松太郎は、採算を度外視した事業を重ねるたびに、自分の持ち山や土地を売り払って資材を買い入れ、人夫への支払いに充てていた。
 請け負った仕事が遅れたら、その責任やコストは事業主が負うべきもので、労働者に無理を強いてはいけないというのが信条であった。

 かなり前の本だが、鎌田慧の『自動車絶望工場』を思い出した。資本主義の名の下に利益追求のため、労働者を痛めつけて使い捨て、過労死に追いやるような企業のやり方と松太郎のやり方は対極にある。
 昭和40年代後半から、企業の社会的責任(CSR)が叫ばれるようになり、企業の経営姿勢はいくぶんマシになったとはいえ、最近の大企業のさまざまな問題行動を見るとき、そのしわ寄せは結局、労働者や下請け企業さらには消費者に押しつけられているだけではないかとも思える。

 水俣病が提起した問題は、現代社会に根ざす病理だ。
 患者への補償は、ただ手続きとして制度化され金銭に換算された「責任」だけだ。たとえ水俣病の認定を受けても、裁判で勝訴しても、補償金や賠償金が支払われて終わりになる。その責任は法律というシステム内の形式上のものにすぎないのではないかと著者はいう。

 苦労をして網元にまでなった父親を水俣病で亡くした緒方正人は、後に水俣病の認定申請患者協議会の会長を務めるが、自分自身の認定申請を取り下げる。緒方は「とり下げ書」を持ってひとり熊本県庁に向かい、応対にでた職員にこう言う。
「おまえたちには愛想が尽きて、もうおのれ自身で認定するしかないと悟った」。
 そして話しているうちに、打ち解けはじめ、緒方が自分のことを水俣病患者だと思うか、と問いかけると、職員たちはそう思うと答えたという。
 緒方は、認定申請を取り下げたことは、職員から見れば都合のいいことのはずだったが、職員たちは「勝った」という感じではなかったという。(『常世の舟を漕ぎて 熟成版』P145-146 緒方正人・辻信一 ゆっくり小文庫)
 緒方自身が水俣病患者という集団の一員ではなくて〈緒方正人〉という個にもどってしまっていたから、相手も役人面をすることもできなくなって、自分の個としての顔はどんなだったかなと探しているような感じだったと書く。

 そして緒方は、化学工場・チッソがつくりだすプラスチックを使わず、木で舟を作り、それを漕いでチッソに行き、水俣病に冒されたわが身を晒すことを実行する。舟の名は〈常世の舟〉と決めていて、石牟礼道子に書いてもらった。
 石牟礼は『常世の舟を漕ぎて 熟成版』の前文に、常世の舟と緒方が名付けた理由について、「ああそこへゆきたいのかと納得した。一族全て、死に神たちの世界に引きずりこまれた人なのである」と書いた。(同書P5)

 ある年の12月にその舟で、自宅のある芦北町女島の自宅前から、直線距離で10キロ離れたチッソの工場のある水俣に向かって漕ぎ出す。
 そしてリヤカーに七輪やムシロ、焼酎をのせて、工場の正門に向かったのである。守衛所に名を名乗って、「水俣病んこつで門前に座りますけん」と挨拶をする。工場の幹部がすぐに出てきて、中に入るように促すが、「なんも心配せんでよかけん」と答え、ムシロに、「チッソの衆よ」「被害民の衆よ」「世の衆よ」と呼びかけの文章を書き、そこに父親の写真を置いた。
 巡回中の警察官が寄ってきたが、ムシロの文章を読んで30分ほど話し込んだ後、警察官は緒方に頑張って下さいと声をかけて去った。

 そうやって何度か工場に通ううちに、いろんな人が緒方の元に来るようになった。学校帰りの子どもたちは誰よりも真剣に彼の書いた呼びかけ文を読んでくれた。それに気付いて、彼は「こどもたちへ」というメッセージも書いた。
 チッソの職員が挨拶をしてくれることもあったが、同じ人が、同僚と一緒の時はよそよそしい態度に変わったのを彼は観察していた。

 緒方は、工場の前で交通妨害をするわけでも、拡声器で叫ぶわけでもなく、ひたすら声をかける。門の前で魚を焼いて焼酎を飲み、「あんたも飲んでいかんかな」と声をかけ続けた。そんなことをして何になるのかともいわれた。
 翌年5月になって、「もう終わりにする」とチッソ側に伝えると、職員はほっとした表情で、「正直言って、非常に困りました」と言った。
 集団交渉なら、企業としてどう対応すればいいか定まっているが、緒方はその企業と患者団体との対決という構図を、たったひとりの座り込みで壊し、お互いひとりの人間同士の対面に変えた。企業の一員としての対応しか知らなかったチッソの職員たちは、緒方から個人として交流をせざるを得ない舞台に引きずり出され、困惑したのだった。
 彼は物事を善と悪、敵と味方に分け、自分を正義のほうにおいて語る、その思考や態度の限界を、運動を通して気づき、ひとりの人間としての交わりを回復するため身を晒したのだ。

〈うつしだす〉の章では、水俣病研究に生涯をかけ、水俣病患者の診察や患者の発見とその実態解明に尽力し、「胎児性水俣病」の存在を世界で初めて発表した原田正純医師が描かれる。
 ひとりの人間として人々の声に耳を傾け、向き合ってきた原田医師の言葉――「水俣病の原因のうち、有機水銀は小なる原因であり、チッソが流したということは中なる原因であるが、大なる原因ではない。水俣病事件発生のもっとも根本的な、大なる原因は〝人を人と思わない状況〟いいかえれば人間疎外、人権無視、差別といった言葉でいいあらわされる状況の存在である。」(『水俣が映す世界』P7 原田正純 日本評論社刊)
 
〈たちすくむ〉の章は、長年にわたって水俣と関わり続けて、多くのドキュメンタリー作品を撮った映画監督の土本典昭を取り上げている。多くの人を撮ったがその背後に、拒んだ人たちも多くいたことを告白し、それでも撮り続けた動機は胎児性水俣病の子どもたちとの出会いだったという。「私は見たからだ」といい、それを著者は「希有の聖なる一回性」と表現している。

 さらに患者運動の先頭に立ち、潜在患者を探し出して原田医師をつれまわった川本輝夫のことにふれる。
 二度にわたって水俣病の認定申請を却下され、ようやく患者認定を受けた1971(昭和46)年に、他の患者家族とともに東京丸の内のチッソ東京本社ビルに乗り込み、その後、何度もチッソの社員や警察官から排除されながらも1年8か月の長期間にわたって座り込みを続けた。
 川本は環境庁長官や熊本県知事、中央公害対策審議会委員等との折衝も行ったが、それらの人たちにも、人と人とが相対して向き合い、立場や肩書ではなく本音で語り合うため、相手に「人間であること」を求め続けた。
 その姿勢はチッソや行政だけでなく、支援を申し出た労働組合や頭でっかちな借り物の言葉をくりだすだけの若い運動家にも向けられていた。国会で労働組合の幹部たちとの会議に臨んだ川本は、肩書がつくと、あんな建物に入ると、あんなに官僚事大主義的な人間になるのかと痛烈に批判する。

 著者が提起している問題は重く、「ひとりの人間として」の問いかけが胸に迫る。

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