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映画『地獄の黙示録』(特別完全版)ノート

フランシス・コッポラ監督作品
主演 マーティン・シーン、マーロン・ブラン

 先日、『解読「地獄の黙示録」』(立花隆著 文春文庫)を読んで、またこの映画が観たくなった。202分という長尺の映画だが、この本を読んだおかげで、これまでのいくつかの疑問点が明らかになり、これまでで一番丹念に見たにもかかわらず、短く感じた。
 
 ドアーズの『ジ・エンド』が流れはじめてフェイドイン――ジム・モリソンの陰鬱な声と歌詞、軍用ヘリのローターの風を切る断続音、ナパーム弾で燃えさかる木々の無音の映像、そこを米軍のヘリの機体の一部が横切るオープニング――その後の激しい戦闘を暗示する画面から始まるこの『地獄の黙示録』(特別完全版)をこれまで何度も観た。
 
 この作品は単なるベトナム戦争を描いた映画、戦闘場面の悲惨を訴える映画ではなく、その狂気を描いた作品ということは理解していたが、その背景あるいは下地にある聖杯伝説や西洋の古典を知っていなければ、何も分かっていない事と同じだということが、『解読「地獄の黙示録」』を読んで分かった。
 
 最後の方の場面で、カーツのデスクの上に置かれた本――聖書や、『From Ritual to Romance(儀式からロマンスへ)』(ジェシー・ウェストン)とフレイザーの『The Golden Bouge(金枝篇)』――を見たとき、これらの本がこの映画の何らかの下敷きになっていることを暗示しているなとは思っていたが、それらの本を開いてみる事をそのとき私はしなかった。
 
 主役の米軍のウィラード大尉は、極秘任務を命ぜられ、カーツ大佐を暗殺するため、川を遡りカンボジアまで赴く。司令部の上官たちによればカーツ大佐はモラルを失っていまや殺人罪で起訴されている身である。
 ウィラードは船の中で司令部から手渡されたカーツに関する書類や写真、家族に宛てた手紙などを読み続ける。数々の勲功をあげ、将軍になってもおかしくないカーツがなぜこのような立場になってしまったのか。ウィラードはどこかカーツに共鳴する自分に気付く。
「機関銃を浴びせかけたあとバンドエイドを貼ってやって何になる。欺瞞はもう沢山だ。カーツの気持ちが少しわかってきたたような気がする」と独り言を呟くのだ。
 
 途中、補給基地でのピンナップガールの慰問における馬鹿騒ぎや、壊滅的打撃を受けた前線基地、墜落したB52の尾翼と思われる残骸、枝に引っかかっている焼けただれた米軍のヘリを彼らは見る。河岸からの突然の銃撃によって船の仲間を亡くすが、どうにかウィラードたちは目的地にたどり着き、カーツと会うことになる。
 
 最初公開されたフィルムでは興行的な原因で全面カットされ、この完全版で追加されたフレンチプランテーションの場面で、仏領インドシナ戦争の話が出てくる。その時闘った兵士たちをフランス人たちが「失われた兵士」と呼んでいると、夫をその戦争で亡くした女性がウィラードに向かって呟く場面がある。米軍の兵士たちがそのようにならないといいがという懸念を示す言葉だ。
 このプランテーションは、持ち主のユベールの祖父たちが、現地のベトナム人を助けて、何もなかったところに入植してブラジルからゴムの木を移植して必死で働いて開拓した農園だ。ユベールは、われわれは自分たちの土地を守るために闘っている。しかし君たちは何のために戦っているのだとウィラードに問いかける。この戦いは歴史にも前例のない無意味な戦いだと。そして「君たちの戦いを戦うがいい」と告げて去る。

 同じ戦争をしていても、自分たち(米軍の上層部の将軍たち)は健全な方法で戦争をしているが、カーツは不健全な方法で戦争を続けていると決めつける偽善を剥ぎ取れば、ウィラードにカーツ殺しを命じた司令部の上官たちとカーツは、結局は同じ穴の狢なのである。
 
 導入部に流れていたドアーズの『ジ・エンド』は最後のカーツ殺しの場面でも流れる。

 いまのロシアのウクライナへの侵略(いかなる理由があろうとも他国の領土を侵すのは侵略行為である)を目にしたとき、カーツの「私を殺す権利はあるが、私を裁く権利はない」という戦争における自己正当化の言葉が重く響く。
 コッポラはモラルの喪失=自己神格化という言葉で表しているが、神ならぬ身の権力者が憲法を改正して大統領の任期を長期間延ばしたり、個人崇拝と恐怖政治で自己の権力を永続化さらには神格化しようという欲望がなくならない限り、戦争はなくならない。
 
 この映画の原題の『Apocalypse Now』は、ベトナム戦争当時と変わらぬ戦争の論理の行く末を表す〝いま現在の黙示録〟なのである。
 
 

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