上が見えない螺旋階段
ポルトガル最南端の美しい洞窟のある岬「Ponta da Piedade (ポンタ・ダ・ピエダーデ)」で。
心のことを学んでいると、ある日、ふとわかったような気持ちになることがあります。
私たちの意識は、らせん状に拡大していくので、少し階段を上がっていくと、自分が昇ってきた道がよく見えるのです。
昔、悩んでいたことや絶対に無理、解決できるはずがないと思っていたことが、階段を上がるたびに、そうでもなかったことがわかります。
何かを経験してそれを乗り越えると、次に同じような試練がきても、上手に切り抜けれるようになったり、放っておくとなんとかなることもあるということも体感でわかっているので、右往左往しないで済むようになるものです。
けれど、階段を上っていって上に行けば行くこと試練がなくなるというと、残念ながらそういうことでもなくて、その器に合った試練が来ると言われています。
でも、それは怖いことではなくて、そのときの自分にはそれを乗り越えられる力があるので、お試し試練のようなことが起こるのだそうです。
それで、今日書きたかったことは、試練の話ではなくて、今いる場所から螺旋階段の下は見えても上は見えないということです。
私たちは、何かを学び経験を積んでいくと、つい下の方を見てしまいます。
どのくらい進んだか気になるからでしょうか。
下を見ると、自分が以前に苦しんでいたことと同じようなことで悩んでいる人のことがよく見えます。
自分がかつてそこにいたからこそよくわかるのです。
でも、そこで思い出さないといけないのは、かつて自分がその場所にいたとき、上の方から見ていてくれた人がいるということです。
その人たちは、温かい目で、私たちを見守っていてくれました。
なぜなら、私たちたちが自分の力で乗り越えられると信じてくれていたからです。
その人たちは、両親であったり、上司であったり、兄弟や姉妹、友人であったかもしれません。
年上の人とは限らず同年代やずっと若い人だったかもしれません。
親しい人とも限らず、通りすがりの一期一会の人だったかもしれません。
でも、私たちには、螺旋階段の上の方が全く見えないので、自分たちが彼らからどのように見えていたのかがわかりませんでした。
そして、いろいろな経験をして心のことを学ぶにつれて、少しずつ階段を上っていくのですが、ある程度まで登った頃でしょうか。
なんだか一皮向けたようなすっきりした気持ちになるのですが、まだやっぱり下の方が気になってしまうものなのです。
本当の学びというものは学べば学ぶほど賢くなるということではなく、学べば学ぶほど自分の知らない世界があることに気づくことだと私は思っています。
スピリチュアルな成長も、成長すればするほど、自分の至らなさ、無知さが身にしみてわかり、今よりさらに無知だった頃の自分が恥ずかしくもなり、そんな自分を温かく見守っていてくれた人や、喧嘩をしてしまったり迷惑をかけてしまった人たち、そして自分が迷惑をかけられたと思っていた人たちにさえ感謝の気持ちが芽生えてくるものです。
私が心しておきたいと思うのは、世の中には知らないことだらけで、私たちは何かを知ったような気になっているだけで、本当は何も知らないということ。
それでも、何かを知ることは嬉しいし、それによって自分自身が強くなり、大切な人を守るための強さが得られるのなら、もっともっと自分の無知を知るために、たくさんのことを学んでいきたいと思うのです。
きっとどこかで誰かが、そんな私のことを微笑ましく見守っていてくれていることを感じているから、螺旋階段の上の方は霧に包まれたみたいに何も見えないけれど、そこには優しい光があることを知っているから、一歩一歩上っていきたいと思う。
ただそれだけなのです。
フランスから愛を込めて❤️
ミカリュスより
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