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自分の細胞が喜ぶことをみつけるの大切だと思うのよ。

自分が何者か、は、自分でもわからない。
そう思ってきた

けど、何者である必要がない人間だと思った。

東京を離れて、程よくお芝居とかかわりながら、自分の好きなことを見つめ直して来た。それがいまは陶芸だ。たぶんきっと

陶芸以外にも、お店してみたり、家作ったり、家事もして、忙しない

でも、すぐ近くに山や川、鳩やカラス含む鳥たちが広い空を飛んでいる京都鴨川。水の流れのある川は人の心もスーッと風通し良くしてくれると思っているよ。だからみんな京都に来たらいいのにってよく思う。東京まで2時間で行ける。家賃だって安いし、面白い人たちいっぱいいる。

芸能界にいて、自分が何なのかなんどもわからなくなったことがあるんだけど、そういう人多いんじゃないかなって。

考える。

私は、「女優」とか「モデル」という役を演じ続けてたのか。
それは今は武器の一つになったけど、そう思えるのは芸能界から少し離れて、自分が細胞から喜んでいることを選ぶようになってから。

「女優」「モデル」の自分を思い返すと楽しさとともに、体に相当ストレスがかかっていたことも頭に浮かぶ。熱出したり、情緒が不安定、自律神経がやられてる。

もともと喋ることが苦手で大人数も苦手。
でも、みんないるときはおちゃらけたり、しっかりしてみたり、先輩づらしてみたり、妹キャラだったり。いろんな顔がある。

みんなそうやって何かを演じて生きてるんだなって。

陶芸はその演じることがいらない。

自分が今何にときめくのか、心がワクワクしたか
可愛いって思った時、とか、自分が笑顔になる。がポイント!
だと思っているよ。
それがきっと作品の良さに繋がるんんじゃないかと思ってる。

何者でもない、その時のワクワクの感覚がそこに現れる。

そんなことが、死ぬまで続けてられたら最高だなって思ったの。

お芝居もそのフィルター通してできたらいいんだと思う。私の場合。

ただ単純に、物を生み出すことが、お芝居をする私の心の安定にも繋がる。
だって、物として物体として私の感覚が存在することになるから、
何者でもない、私の感覚という物体が目に見える
そんな気がする。

細胞よ喜べ!

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