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嫌なものから目を逸らす、嫌な自分への歌

自作詩(東方Project二次創作)
 散る花束/風見幽香

解説:

 風見幽香は花の妖怪とされており、「花を操る程度の能力」を持つ。彼女は明確な元ネタが明言・特定されておらず、また、その素性の不明さに留まらず、あまりに好戦的で危険度が高く途轍もなく強いという公式設定が存在しており、単なる「花の妖怪」と言うには不自然な点が多い。このことから、花の妖怪というのは自己申告に過ぎず、花を操るという能力も彼女の持つ力の氷山の一角であり本質的にはとても強力な妖怪である、とファンの間で解釈されることもある。
 初の登場作品である『東方花映塚』では、四季を問わず花々が咲き乱れる異常な異変が発生し、花の妖怪である風見幽香が黒幕ではないかと主人公たちによって囁かれる。実際、幽香本人も花が咲く異変を楽しんでおり、花の咲く場所へと転々と移動しては遭遇した者を「虐め」と称してボコボコになぎ倒していくので、噂はさらに拡大していく。
 しかし、花が咲き乱れる異変の原因は幽香ではなかった。東方花映塚作品中の説明によると、植物に霊が宿ることで花を咲く。その花を咲かせる人間の霊が、あまりに大量に発生したのが原因、とされている。それは幽香に操れることではない。

 幽香 「人間は死ぬと花を飾ったりするんだってね?」
 ??? 「そうですねぇ」
 咲夜 「でも目出度いときにもお花を飾りますよ?」
 幽香 「花が目出度いのに死の象徴でもある理由は判る?」
(中略)
 幽香 「それは人間と同じだから。
      霊が宿り、花が咲き、霊が去ると花が散る」

東方花映塚 幽香vs咲夜 台詞

 幻想郷においては、彼岸に渡れないほど大量の霊があふれ、花が咲き乱れる異変が、おおよそ六十年に一度の周期で巡ってくるという。
 この「六十年」という数字については、作品中では「幻想郷と外の世界(我々人間が住む現世)を隔てる結界が緩む年数。かつ、外の世界で霊が増える周期と重なっている」と説明がされているものの、「外の世界で霊が増える」というイベントが何なのか、ファンの間で様々に考察されている。
 ひとつ有名なのは、戦争の終戦に合っているのではないか、という説である。花映塚の頒布年が2005年であり、その六十年前がちょうど1945年、第二次世界大戦・大東亜戦争の終戦にあたり、現実世界で人がたくさん亡くなった年であることから、東方花映塚において「現在の六十年前にも霊が溢れ花が咲き乱れた」というのは終戦間際を表しているのではないか、というものだ。また、東方花映塚のラストステージは「彼岸」すなわち地獄であり、地獄の裁判長である八人の閻魔大王のうち一人がラスボスとして立ちはだかる。そのテーマ曲は『六十年目の東方裁判 ~ Fate of Sixty Years』であり、1946年に戦争犯罪者を裁くために開かれた「東京裁判」の字をもじっているのでは、とか、様々な示唆が指摘されている。
 とはいえ東方Projectの原作者からは「馬鹿ゲーなのでストーリーなど気にせずに楽しんでほしい」という旨のコメントがあり、そのテーマを重いものと受け止めるか、明言されていないことなので真面目に取り扱わず楽しむか、という姿勢はプレイヤーによってまちまちである。


 俺がこの詩を書くにあたって注目したのは、風見幽香自身の持つ特性や彼女の語る言葉だ。

 ひとつは、先に引用した風見幽香の台詞である「花は霊が宿ることで咲き、霊が去ることで散る」というラインである。
 風見幽香の言葉の通りならば、花とは生命を象徴するものだと解釈できる。咲く姿は生きていることを、枯れる姿は死んでいくことを表す。生命である以上、生と死という境界は生まれ、いかなる生命もその法則から逃れることはできない。そんな花が、風見幽香はおそらく好きなのだ。「花の妖怪」と言うにはあまりに強力で容赦のない妖怪である幽香が、それでも花の妖怪を自称するのは、花のことを好んでいるからではないか、と俺は思う。

 もう一つ、風見幽香の特性として、「花が咲く場所を求めて年中移動している」がある。
 おそらく普通に解釈すれば、「花が咲くのも枯れるのも好きなので、その過程を楽しめる場所にずっと身を投じていたい」という意味になる。

 しかし、もう一つの彼女の持つ要素を見たとき、俺は何か違和を感じてならなかった。
 風見幽香の能力である「花を操る程度の能力」の例として、「枯れた花をもう一度咲かせることができる」という内容が公式に説明されている。

 もし、花が咲き、枯れるまでの過程そのものをただ自然に愛したのならば、花をもう一度咲かせることはないはずだ。また一年後、その場所に戻ってきて、新しく咲く花を楽しめばいい。しかし、自然の摂理に反して、枯れた花をもう一度咲かせようとする。それはまるで、花が咲く時間を永久に閉じ込め、その感動を冷凍保存しておきたいかのような、ある種の強迫さえも俺には感じられる。
 風見幽香が年がら年中そういう移動と蘇生を繰り返しているわけではないかもしれない。だが、ある一定の時期、心に鬱屈や執着がたまっていく時期において、「どうか花よ枯れてくれるな」「枯れる姿など見たくない」と言って、花が枯れた哀しみを誤魔化すように、もう一度咲かせてからその場を去っていく、という異常な光景があったとして、それはおかしいことではないんじゃあないか、という視点を、この詩に込めたつもりだ。
 人間だって、どうしても手放したくないものを喪ってしまったとき、そのことを整理できずに、なくなったものにずっと心を宙づりにされることもあるのだから。

 

亡くなってしまったものへの執着との決別については、
『ブルーピリオド』の14巻・15巻で描かれる視点が、
非常に厳しく、また優しくもあって、俺の好みだ。
同じ一つのものを喪失した集団があったとして、
それに見切りをつけられるか、ずっと抱えてしまうかは、
その人によって様々であり、
また、どう振舞うべきか、という答えもない。


(なくなったものへの未練と執着、というテーマは、東方Projectアレンジサークル『Squall Of Scream』の楽曲において頻繁に描写される。上記の楽曲は風見幽香のテーマ曲である『今昔幻想郷 ~ Flower Land』のアレンジ楽曲であり、東方花映塚における四季異変の内容に近いような描写が繰り広げられる。
 また、このアレンジ楽曲のVo.Featuringを担当しているMochinagaは自身のバンド『Fall Of Tears』にて、二度と再会できない大切な人への想いを鮮烈に綴る叫びを、複数の楽曲において繰り返し述べている。
 Squall Of Screamは楽曲『True End』にて、Fall Of Tearsは楽曲『mement』と『Jasmine』にて、どうしても別れられない想いとの終着点を描いた。それは、何度も何度も未練との決別を図ろうとして失敗してきた人の、どうしようもない自分自身への、これ以上ない賛歌である。)


 もう一つ、この詩には、「無償の愛を持てない自分への不甲斐なさ」が込められている。それは、その不甲斐なさからなるべく目を逸らして、花が咲くところだけを見て、そのまま生涯を終えてしまおうという、閉塞した空間を詩全体に漂わせている。

 可能なことならば、「誇りと尊厳を以て死を選び、過ちと謝罪を認めて我を貫く」という人間でありたいという希求が、俺の中に存在する。しかし俺にとって人間とは、一度は美的観点や哲学を共有した盟友であったとしても、いずれ考えの袂を分かってしまうものだった。それはまるで、俺がこれまで一方的に感じていた美しさが、必然のように枯れてしまう姿。それを見たとき、俺は、自分の方が間違っていて、変わる方が正しいのだろうな、と思ってしまう。そんな状況を何度も見送って、そのたびに自分を否定して、そんな応酬にもう疲れてしまった。そして、自分の中にある美的感覚さえも、世間と忙しなさ、あるいは怠惰や快楽の奔流に流され、息を潜めて、忘れ去ってしまうこともある。人の美しさも、自分の中にある理想的なものも、俺は枯らせてしまう。それなら、もう、どうしても枯れてしまうのならば……。
 俺は、どうしても枯れてしまうということに気付いたとき、自分が見る夢の中に逃げ込もうとした。現実世界を遠ざけて、睡眠時に見る夢の世界にずっと閉じ籠もる。生活に最低限必要な労働だけをして、あとは最低限の衣食住と、睡眠時間だけで構成された生活。仕事以上に誰ともかかわらない。何も創作しない。何の意思も示さない。そうすれば、他人と自分との深遠な相違点を直視することもない。然るに、誰かが枯れる姿を視ることもなく、永遠に夢の中で、咲いた姿だけを視ることができると。
 それは社会に不適合で、人間を遠ざける、異常な終着点なのかもしれない。けれど、誰もかも、そういった人付き合いをしていないと云い切れるだろうか。自分の好きな部分だけを見て、厭に感じたり痛みを抱く部分に関しては、目を背けて、見なかったことにしてしまわないだろうか。俺は、そういう姿勢自体が、「咲く姿だけを見続け、枯れる前に潮が引くように逃げる」という、異常で、しかし普遍的な人間の習性なのではないか、と思う。

 そういうものに無自覚な人や、致命的さを感じない人は、一定数存在する。そしてそういう人を見るたび、俺みたいな「枯れたものから逃げる自分が嫌いだ」という人間は、寛容さがなくて、救いがなくて、しょうもないことを致命的に気にする、どうしようもない人間なのかもしれない、と思ってしまう。

 それでも俺はあくまで、致命的さを背負いながらも、人と、俺の枯れる姿をしっかり見ていたい。枯れる姿から逃げようとして、花束を永遠に閉じ込めておこうとする自分を自覚しながら、それでも、花が痛む姿さえも目に留めておきたい。
 自然のものを自然なままに受け容れ、そのすべての振る舞いに、どうしようもなさを感じながらも、それ自体が美しいと、言えるようになっておきたい。でなければ、俺は俺を永遠に責め続けるだけだろう。毒づいて、変化するものを疎んでしまう、どうしようもない俺を、それでも無償に助けてくれる様々なものたちに、正しい報いを返せないだけだろう。


でも気を付けてね スーさんには毒があるんだから
こわいでしょ?
だから好き!
小さくても大きな花に埋もれないくらいキレイに咲くところも
大きな力にまけないように毒で自分を守ってるところも
ぜーんぶ好き!
…でも
毒があるからひとりぼっちになっちゃう あたしと同じ
ねぇ? スーさんは 毒なんて欲しかったと思う?