積み重ねた日々、不器用な乾杯
幼い頃から、人生は「本当」を探す旅だった。
ずいぶん大人になってからも、本当の目標とか本当の人生とか、そんなものを見つけたくて必死だったように思う。
そんな調子がつづき、迷子のピークを迎えた29歳のときに決めたのが海外へ行くことだった。
すべての段取りが整ってから家族に報告した。父は驚きと呆れが入り混ったような声色で言った。
「何?アメリカ行くやと?
おまえもう30になろうもん
なんば言い出しよっとか」
お父さん、話があります。
私がそう切り出したから、てっきり結婚宣言でもされると思ったのだろう。どこか拍子抜けしたような顔をしていた。嫁に行くどころかアメリカに行くのだ。
全部自分でお金出すんやから迷惑はかけん、と食い下がる私に、父はふっと声の力を弱めて「おまえはお母さんに似て頑固やからな」と言った。
本当の親子、本当の私。どうすれば辿り着けるのか。迷い道から抜け出すために、旅立った。
***
「気を悪くしたらごめんよ?君とお父さんって不思議なぐらい似ていないんだね」
そう言ったのはアメリカで出来た友人で、日本人以外が見てもそう思うのか、と妙な気持ちになったのを覚えている。
出発した日に空港で父と母と一緒に撮った写真を見せたときに言われたセリフ。
似ていない、ハッキリそう言われて胸がすく思いだった。
父と私は血の繋がりがない。
大人たちはずっとそれを隠していたが、うんと昔からすでに気付いていた。
実父の死去後、母が再婚したのは私が5歳ぐらいのとき。
よく遊びに来ていたおじさんがいつもいるようになった。アパートからマンションに引っ越した。ハンカチに書いてある名前が変わった。
その記憶を地続きで脳内に持っているのか、ある日辻褄が合って理解したのか、は正直曖昧だ。
ただ一点、確信を得るための揺るがない事実があった。父と私はまったく似ていなかった。容姿も、性格も。
お父さんはどんな人か、と聞かれると「田舎のおっちゃん」と答える。笑うとなくなる細い目。いつも出ているお腹。使い古した服と草履。笑福亭鶴瓶から都会的要素を引っこ抜き、優しさと堅物さをまぶしたみたいな感じ。
ずっと九州の田舎町で暮らしていて、海外どころか東京も行った経験がない。もちろんパスポートも持っていない。
近所の焼き鳥屋さんが似合うような典型的な「おやじ」だ。
親戚で集まると、大人と真面目に会話するよりも子どもと遊ぶほうが楽しそうにしている。
10代の頃、私には反抗期がなかった。
血の繋がらない関係が背景にあると、反発すれば反発するほど、きっと父が悩むだろうと容易に推測できたからだ。
生意気ではあるものの、ある程度から一線を越える気はしなかった。
はっきり聞いたことはないが、兄も同じ気持ちでいたんじゃないかと思う。
兄は私よりも5歳年上なので、我が家の事情を"知っている側" の立場だった。何も知らない弟と、中途半端な私。
一度だけ、父と兄が激しく衝突したことがある。どうしてそうなったのか理由はよく覚えていない。ただ、その夜に見た父のうなだれた背中だけは目に焼き付いていて、もう二度と見たくなかった。
逆に、我々兄弟の中で唯一血の繋がりがある弟は、父としょっちゅう揉めていた。分け隔てなく育ててくれていたが「本当の親子」はやっぱり何かが違うのだと思った。
私が大学一年のとき、父は失業した。
小さい企業だった勤め先が倒産して、文字通り父や母は右往左往し、「このまま大学に通わせてあげられるか分からない」と言われた。
何とか工面してくれて通い続けられたが、あわよくば留学したいと希望していた私の夢はあっさり吹き飛んでしまった。
昔から我が家は裕福から程遠かった。
やってみたいことを訴えても返ってくるのはいつも「やらせてあげたいのは山々だけど…」というセリフだった。
父の失業は、我が家の「お金がない」に拍車をかけた。
育ててもらっているんだから
家族生活を送る中で生まれるザラッとした感情を、その一言で理性的に抑え込んでいく。
お金の面以外でもそうだった。そのたび心に小さなシコリのようなものができる感覚がした。
客観的に見ても私たちは普通の親子だったが、お互い核心に触れないせいで、ときどき妙な間が生まれた。長らく積み重なるにつれ、そういう瞬間がひどく面倒に感じられてきた。
どうして父と母は本当のことを言わないのだろうか。
どうして私が知らないフリをしなければならないのか。
いっそ「育ててやってるんだ」ぐらい言われればケンカの一つでもできただろうか。
養父と養女という立場をハッキリさせたほうが健全な関係性が作れたんじゃないのか。
そうやってごにょごにょ考えるぐらいなら、両親にちゃんと言えればよかったのに、それがどうしてもできなかった。
父は、私にいつも優しかった。
声を荒げられた記憶もないし、否定されたりした経験もない。だから父に対して良からぬ感情を抱くのは傲慢だった。何がそんなに気に食わないんだろう。自分でもどうしてかさっぱりわからなかった。ただ、シコリがどんどん肥大していくのだけはわかった。
一度絡まった糸がぐちゃぐちゃになって解けないように、次第にその苛立ちは同じように真実を告げない母にも及んだ。二人に刺々しく接するようになってしまい、自己嫌悪は増すばかりだった。
離れなければ、と唐突に思った。簡単に帰れる距離じゃなく、うんと遠いところまで。
一つの出来事の背景は何面性もある。私が海外に渡ったのは、転職タイミングとか、語学を学びたいとか、前向きな、快活な、理由があった一方で、裏側にはこんな淀んだ気持ちもあったのだった。
たったひとりで降り立ったアメリカ・カリフォルニアの地。誰も知り合いがいない土地で、少しずつ生活を組み立てていった。
目に入るもの何もかもが新しく、フライパン一つもない暮らし。20代で貯めた貯金を切り崩しながら、インターンシップという華やかな名前をまとった極貧生活がスタートした。まさか30歳にもなって「今週あと250円しかない」なんて日々を送るとは思わなかった。
けれど、この生活は私が父母に対して持っていた気持ちの歪みを正すのに必要な時間だった。風穴が少しずつ開いていった。
物理的、金銭的な気付きはもちろんある。
何も持たない生活をして始めて、たとえお金があんまりなくても充分すぎるほど豊かに育ててもらえた日々に心底感謝できるようになった。
もう一つ大きかったのは多様性に触れたこと。
新たな生活場所となったカリフォルニアは移民が多く、それまでの価値観がものの見事にぶっ壊された。家族の形もさまざまだった。血が繋がらなかったり、祖父と孫ほど年齢が離れていたり、親子で国籍や文化が違ったり、両親の性別が同じだったり。ステップファミリーという言葉を知ったのも渡米してからだ。
私が追い求めていた「本当」とは一体なんだったのか。本当の父親とは。本当の親子とは。
正しい有りようを探していたわけじゃなかった。ただ私は、本当のことを言ってほしかったのだと思う。
「お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、みんな嘘つきだ」
多感な時期はそう尖ったりもして、でも大人になってからようやく、両親や兄もきっと迷いながら過ごしていたはずだと考えられるようになった。私に隠していたのは、優しさだったかもしれないし、弱さだったかもしれない。
駅から家まで歩く暗い夜道で、ふと思い出す。
こういうとき、父は文句も言わず当然のように迎えに来てくれた。
言葉が通じずに落ち込んだ日、ふと思い出す。
こういうとき、父は特に何も聞かずに普段通りに接してくれた。
紛れもなく、父と娘だった。父に甘える娘と、娘を想う父だった。
中国語を話すおばちゃんに間借りした4畳の部屋、コストコで買ったカップラーメンをすする生活の中で、本当に大切なものを取り戻していった。
***
渡米から数年後のお正月、私はある男性と二人で日本へ帰省した。降り立った地元の空港まで父が迎えに来てくれた。
実家へ向かう車の中で、父が「この子は母親に似て気が強かけん、苦労するぞ〜」と彼に語りかけていた。
***
さらに1年後の秋、父はアロハシャツを着ていた。
カリフォルニアと日本。私と夫、家族、友人それぞれが住む場所の中間地点として結婚式の場所に選んだのがハワイだった。
そうしたいんだけど…と母に電話で相談する受話器の向こう側で、父の声が遠くから聞こえてきた。
「何?ハワイでするやと?
おりゃパスポートも持っとらん
なんば言い出しよっとか」
父、人生で初めての海外旅行。
海外挙式は多忙だ。すべてをリモートでやり取りし、前日に現地入りしてコーディネーターと最終打ち合わせをする。
ホテルや車の手配に、家族や友人の時間差到着。あっというまに日をまたいで、気が付けば本番直前になっていた。
挙式が始まる前の、わずかな静寂。
母にウエディングベールをかけてもらう瞬間、すぐそばに父の姿があった。
プログラムに花嫁の手紙コーナーは設けず、その代わりに小さなカードを書いた。ハワイのお土産ショップで買った、亀のイラストが描かれたもの。
情緒もへったくれもないが、それぐらいがよかった。照れくさくて「あとで読んで」とだけ言って渡した。父の前で感情を吐露するのに慣れていない。
そうして、さぁ挙式が始まるぞ、というときにパッと振り返ってびっくりした。
父が号泣していた。
ちょっとお父さん!今から本番よ!と母が背中を叩いてもなおスンスン泣く父。目をしょぼしょぼにして花嫁と歩く姿に、「そうなるだろう」と予測していた身内は苦笑いし、一部の友人たちはもらい泣きしてくれた。
海外挙式は自由だ。その後のパーティーでも、挨拶やケーキカットなど以外は、新郎新婦もうろうろしていい。参列者わずか20人ちょっとのアットホームさ。私はグラスを持って、家族のところへ行った。
父、人生で初めてのシャンパン。
「泣きすぎ」
「うるさいっ」
そう言い合い、私たちはグラスをコツンと鳴らして乾杯した。
相変わらず出ているお腹と相性が良いのか、アロハシャツは思いのほか父に似合っていた。
***
#また乾杯しよう のお題と向き合う中で、私にとって「人生最高の乾杯」を書きたいと思った。また乾杯を交わしたい相手についてがいいな、とも。
そのとき頭に浮かんだのが、父とシャンパングラスを鳴らしたシーンだった。
こんなふうに文章にするのは、照れ臭くもむず痒くもある。綺麗なところを切り取っただけでは?と自分で悪態ついたりもする。
でも、私の人生にとって、あの乾杯は特別であり、必要であり。ようやく「本当」を越えられた、取っ払えた瞬間だったんじゃないかと思うのだ。
血の繋がらない私を育てたこと。
本当はどう思っているんだろう。
この期に及んでも、そんなふうに考える自分もいる。実のところ、父と私はまだお互いその辺の核心に触れられていない。いつか腹を割って話す日がくるかもしれない。
けれど、親子になって30年以上経った今でも、こうして父と娘でいる事実がすべてなのだと思っている。「本当」は探すものでも見つけるものでもなく、積み重ねるものだった。
ようやく一度だけ、父に対する自分の気持ちを伝えられた。結婚式のときに渡した亀のイラスト付きのカード。最初で最後、三十路過ぎても素直になれない娘から精一杯の言葉を添えて。
「お父さんの子どもで、よかったです」
ここ数年、父の誕生日にはカリフォルニアワインを送っている。ビールと焼酎、ときどき日本酒だった父の晩酌に、異国の華やかな色が加わった。送られてくるたびにとても嬉しそうにしていると、母から報告がくる。直接は何も言ってこないのが父らしい。
いまの夢は孫とお酒を飲むことだそうだ。息子たちが20歳になる頃には、80歳を過ぎている。健康でいてもらわないと困るよ。
長生きしてね、お父さん。
最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。