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三島由紀夫と三桁の魔力

ベンチプレスの選手だった頃、試合で100kgを挙げた時は感動しました。
考えてみれば90→95→100kgというのはそれぞれ5kg差なのだから、トレーニングしていれば力は確実にアップするはず。
それでも、100という三桁の数字は「何かをなしとげた」感を得られるもの、そしてちょっと自慢したくなるものでした。

「かつて私は、胸囲1メートル以上の男は、彼を取り巻く外界について、どういう感じ方をするものかということに、一つの認識の標的を宛てていた。それは認識にとって明らかに手にあまる課題であった。なぜなら、認識は多く感覚と直感を手蔓にして闇に分け入るものであるのに、この場合はその手蔓が根こそぎ奪われており、認識の主体はこちらにあり、包括的な存在感覚の主体は向うへ譲り渡されているからである」

これは三島由紀夫著の「太陽と鉄」より。
三島さんにとって、100cmという三桁の胸囲を持つ男は異世界の住人だったのだ。

「胸囲1メートルの男の存在感覚とは、それ自体、世界包括的なものでなければならず、認識の対象としてのその男によっては、彼以外のすべてが(私をも含めて)、彼の感覚的客体に変貌している必要があり、そういう条件下で、さらに包括的な認識を逆流させるのでなくては、その正確な像は把握されない筈だ。それはいわば、外国人の存在感覚はどんなものかを認識しようとするのに似ており……」

と延々と認識追及への仮想が続き、さすがの三島先生も三桁の魔力の前には屈服するしかなかったかと諦念したところ、

「しかし、突然、あらゆる幻想は消えた。退屈している認識は不可解なもののみを追い求め、のちに、突然、その不可解は瓦解し……」

な、何があったんだ?!
と注目して文章を追うと……

「胸囲1メートル以上の男は私だったのである」

先生、そういうことだったのですか……
「毎日、熱心に筋トレに励んだところ、ついに私の胸囲も100cmを超え……」
と我々凡人なら書くところ、三桁の喜びをここまで飾り立てるとはさすが三島さん。

自慢げにニヤニヤしている先生の姿が行間に浮かんで来たものです。

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