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みかんの家と鞠付き歌

僕は、子供と遊んでいると親の声が聞こえてくる気がする時がある。
絵を描く会は特にそうだけど、それだけに限らず。(→絵の具会の話へ
みかんの家を留守にすることが増えてしまったけど、裏方の裏方として思ったことを書いてみます。

最近のみかんの家の活動は、発酵カフェ、0円ぐるり、お醤油作り、スナックみかん(かもめ堂)など。
子ども食堂や支援施設といった、直接的な形ではない。
僕たちが「子供の場所」を実践した結果、段々こうなってきた。
これらの活動に共通することは、いわゆる「普通」にしていたら出会わないことだと思う。
次の一歩の「何か」を探している活動ではないだろうか。

少しだけ毎日が変化する。
子育てというか、将来のリズムを鞠付き歌に変えることではないかと思う。
→鞠付き歌の話

例えば、精神分析という心理系の技術では、対象者の話の細部を必要以上に突っ込んだり、突然話を遮ったりするらしい。
こうして、本人の思考では辿り着けない無意識にアクセスし、それによって長年のトラウマが解消に向かったりする。
トラウマは大事な場面での動きを鈍らせるし、同じ問題に再帰してしまったりする。
本人の意識の外側にあるので、なかなか解決に辿りつかない。
鞠付き歌の効果は、ほんのちょびっとだけセルフ精神分析みたいな要素があると思う。

みかんの家の建物はボロボロだし、やっていることも言葉では説明が難しい。
変則的な弾み方に不安を覚える人もいると思うけど、銚子市の中心地のリズムを鞠付き歌のように未来は大丈夫だという場。
そんな風になってきているんではないかと思う。
いつも未完成で、もやもやしていて形にならない。
それが良い。

子供の場所のスナックという設定も面白くて、子供もうろうろしていて大丈夫。
大人も子供も変拍子を浴びる。それが巡り巡って子供や地域に影響するはず。(少なくとも僕は、そういう意識でいる)

銚子にはおいしくて楽しいお店も、隠れたプライベートの面白い場所もいっぱいある。
それよりももう少し、人としてオープンな場所。
だからといって、誰にでもシェアキッチンを開放しています!ではない。
でも閉じているわけでもない。

誰かが言っていた、江戸神輿?の話。
お神輿の前の方の棒は花棒と言って、そこを担ぐことは名誉なこと。
毎年同じ人が担ぐけど、歳をとって世代交代をすることがある。
そこで、毎年来てる名前も知らない人に変わる。
来年から任せた。みたいな。
そういうやりとりがあると嬉しいと思う。

お金でもなければ、変に媚びられても違う。
人の勇気やチャンスを想像するとごめんなさいという場面もあるし、商業的にも機会損失なのかもしれない。
そのようにわかりやすくその場が続くかどうか以上に、わかりにくいけど少し息の長い気配のある場。
そういう実験ができることは本当にありがたい。

鳥取で居候させてくれていた友達は、
「お店がなくなっても、友達はなくならない。」と言っていた。
本当にお店はなくなってしまったけど、本当に友達であり続けている。

大学卒業後に職業訓練に1年通った。
そこには、中卒の悪ガキに混ざって、早期退職したおじちゃんたちが数名いた。
人生の先輩たちが、毎日楽しそうに過ごしていた。
職場と家庭以外の場で、しがらみのない友達と新しい技術を学ぶ。
一時的にそうパフォーマンスしてくれたのではなくて、毎日をそうやって過ごしているように僕には見えた。

みかんの家は、お金や上下関係ではなく、あんまりシャンとしない。
なんとなく友達と過ごしながら、子供の世代に繋がる次の一歩を模索する場所。
地域の伝統芸能は、生活の息遣いが積み重なって独特の間が作られる。
人工的に設計された街では、クリーンルームすぎて発酵しない。
銚子に暮らす人が作る変拍子が肝になる。
「地域の発酵」というと大袈裟かもしれないけれど、そういう種類の何か貴重な場だと思う。

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