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小説 ヒマワリのマスキングテープ

「ずっと悩んでるな、もう終わったことなのに」
「うるさい、いいじゃないか、別に」
昨日、3年も付き合っていた彼氏に別れを告げられた。ショックで寝込むかと思っていたけれど、案外大丈夫な体に悪態をついている。
 隣で喋っているのはいわゆるイマジナリー・フレンドで、癒えていない心の痛みに悶々としていたら、急に現れた。びっくりするほどの気力も残っていない。
「何してんだ?」
 体が大丈夫とはいえ、休日の昼まで寝込んでいた。起きてふと、絵を描こうと思い立ったので、昔に買った好きな色の水彩絵の具と新品の筆を机に広げた。
 好きな色は青。特に部活で使ったプルシャンブルーという色がお気に入りで、それと灰色、もう一つの青色絵の具の3つを持っている。かける絵のレパートリーがあまりに少ない。そもそもあまり絵を描いたことがないから、技術は全くない。空想や妄想が好きだから、心に描かれた情景をそのまま絵にできたらいいのにと思うけれど、いつもうまくいかないし、描くのが嫌にもなってくる。
「へえ、そんなの持ってたんだ」
取り出したのはひまわりのマスキングテープ。湿気の多い夏でうんざりしているけれど、以前母が買ってきてくれたこれを思い出して少しだけ気分が良くなった。紙にマスキングテープを貼って固定する。それだけでなんだか、今から大作を描けそうな気分になってくる。
「何描いてるんだ?」
「海だよ、海」
平筆で画面の大部分を占める海面を描く。筆が行ったり来たりして、どんどん変わっていくムラを調整した。流れがうまく描けて少し嬉しい。
 空に雲を描こうと思ったがうまくいかない。諦めて薄めた青を上から塗りたくった。紙が水を吸ってぷっくりと歪む。
「消すのかよ、じゃあなんで雲なんて描いたんだ?」
わからない。空は灰色を吸ってくすんでいる。海は深い青色をしていて、なんだか陰鬱な絵になってしまった。
「そういや、絵はその時の気持ちを表すっていうよなあ」
聞いたことがない。出鱈目だろうかと思ったが、その言葉は心に深く刺さった。
「・・・そうかもね」
 なんとなくヨットを描いた。昨日読んだ本に、自分としてヨットを描く人の描写があった気がして、私も、このヨットは私。かのように思って描いた。いるかいないかもわからないカモメを記号的に描いて、絵は完成した。私にしてはうまくいったんじゃないかと満足げに笑った。
 筆を洗って片付ける。もう乾いたかなと思って絵を見ると、海の上に水滴が1つついていた。
「あっ・・・」
ティッシュで吸うも、不自然に紙の白が透けてしまった。慌てて絵の具と筆で修正する。絵の具のムラは変わってしまったけれど、大きな損傷にはならなくてよかった。ヒマワリのマスキングテープをゆっくり剥がしていく。白いフチが綺麗に出るから、この瞬間もまた好きだ。
「・・・」
またやってしまった。マスキングテープが紙の表面にくっついて破けていく。絵の端が欠けて、流石にちょっと落ち込んだけれど、水のついた筆でなぞると、周りの絵の具が欠けた場所を埋めて助けてくれた。
 いつの間にかイマジナリー・フレンドはいなくなっていた。初対面だったからフレンドと言えるのかはわからない。外で車の音と、鳥の鳴き声が聞こえる。気分はまだ晴れない。扇風機は湿気のない風を運んでくる。窓からは湿気を含んだ生暖かい風を運んでくる。
 綺麗なマスキングテープに貼り直して、絵の写真を撮った。

 どんな名画より、その絵は私の心を打った。

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