don’t know

 雨の音を聞いて感傷に浸り、朝焼けに黄昏、日向と日陰のコントラストに酔いしれ、空と植物を画角に収める。空や植物、天気、雲などと、感性と共に生きてきた。そしてそれが私の誇りでもあったのに、どうしてパソコンの前に座るとそれらは逃げていくのだろうか。才能とは能力値のどこから言われる言葉なのだろうか。私は天才ではないのだろうか。
 実際文字を書くのはそううまくはない。母親が感受性豊かな子に育てたいと尽力してくれたおかげで本当にその通りになったと思う。そして幼少期から作曲、作詞、詩書、物書と、そういった創作をしてきた。天才、文豪、才能があると言われたけれど、大体は降ってきたものを形にしただけで、つまりは名言やひらめきといった部類のものを世に出しているにすぎない。天才の、才能の見つけ方をどうにか簡略化してはくれないだろうか。
 ずっと、そんなことばかり考えている。そして私にはきっと才能があるはずだと、どこかで本気で信じてやまない自分がいる。
 学校の図書室が好きだ。本を読むのが好きだ。新書は知識をくれて、小説は私に冒険と現実逃避をさせてくれる。図書室では人々が個々になる。誰も干渉しない空間が好きだ。そして私にとっては、創作の生み出される空間でもある。想像力、感性、私の中の文豪の棲家。頭の中で言葉が溢れ出していく。蛇口があって、そこから絶え間なく、なんならキャパオーバーして壊れそうなほど。言葉の洪水が起きる。どこかの小説の一片が、日常の些細な出来事が、物語になって紡がれていく。
 止まらない、止まりたくもない。図書室は私が私でいられる場所。私と言葉は友達で、私には才能があって、それで・・・
「・・・」
言葉も出ない。感化されるということだろうか。この空間には同じように才能が溢れかえっていて、そこにシンパシーを感じて思い違いをしているのだろうか。
「私がただの人間・・・?そんなわけないじゃない」
思わず口に出た。体全体でその論を否定している。本当は才能があったら、もっとマシな文章を書けただろうか。才能があったら、1行目から、いや読む前から引き込まれる何かを生み出していただろうか。
「空気が揺れる。彼女は右足を庇って歩いていく。まるでなんともないですよというような顔で。誰かに心配されたい欲を持ちながら、表面では平然と欲を隠して生きている。欲は醜い。醜いものは嫌なのだ。だから彼女は欲を隠す。欲はループでなくならない。」
「幸せに、悔いは少し残して天命尽きて死んだはずなのに、どうしてまだ人形をしているか。私には何かやるべきことが残っていて、前世ではそれをクリアすることができなかったからまたこの世に戻されたのだろうか。だとすればなんと酷いことか。」
 魂はどうなるのだろうか。私たちは一度きりの品なのだろうか。老いたら置いた時の行動や言動しか取れなくなるのだろうか。赤子のように、若人のように、もう一度あの溌剌とした明るさを持ってこの世界を堪能することはできないのだろうか。人間の魂は機械同然なのかもしれない。ぐちゃぐちゃになるまでミキサーにでもかけて他のものと混ぜ合わせるか、それともどこかにあるマニュアル通りに設定をしてリセットをかけるのだろうか。私たちは私たちのまま、なかなか転生することは叶わないし、記憶も何も持ち合わせていない。もしかしたら永遠に初めましての人間生活を送っているのかもしれない。だとすれば私こそがかの有名な太宰治だったかもしれない。坂口安吾だったかもしれない。そう思うと現代でもその能力は才能と、素晴らしいものを作り出せる人間であるということには果たしてならないのだろうか。
 ここで疑問を一つ。読者にはこれはどのように映っているのだろうか。もしかしたら覚えたての言葉を必死に我がものにしようとする若人にでも見えているのだろうか。この問いにもしイエスと答えるのであれば、私はノウと返すだろう。私の中に生まれた水滴の一つであり、海の水なのである。私はそこからバケツで水を掬って、この拙いデジタル上に流しているにすぎず、そして私は辞書を引くことが趣味なわけでもないから、つまり私の中に元々収納されてあったということだけである。
 小説とは、才能とはなんであろうか。果たしてもし使える語彙が限られているところの勝負なのであれば、使い方次第で凡人にも天才にもなれるというのが言葉である。最近こんな話を聞いた。日本語は暴言が少ないのだそうだ。暴言に値する言葉が。だから翻訳の時に少し困るな。こういうことがあるからつまりは日本語の中で才能があるものと、外国の中で才能があるものは、別物と言っても過言ではないのかもしれない。
 小説を書こうと思い立ったのにくだらないこんな話をつらつらと書き連ねている。しかも句読点が圧倒的に少ないものだから醜いったらありゃしないだろう。ある意味これは私の息抜きでもあって、先ほどから述べている私の頭の中の蛇口、池、海から水を取ってきて、ここにわけもわからず並び立てているところである。本当は支離滅裂なのだが、まだこれはマシな方で、読めるように頑張って整えている。おかげで私自身もいつもの何倍も書きやすいし読みやすい。本当の支離滅裂というものを私は持っている。
つまりこんな具合にだ。

『私の両親は具合が悪い故に雷の落ちる時を知っている。蜜蜂というのはヨーロッパの街中にも飛んでいるものなのだろうか、植物の園には言ったことがないのでその点についての噂はからっきしわからない。私がたとえばこのベッドを抜け出してカフカにでもなったら世間は同じような反応をするのだろうか、実験かつ研究対象にでもされてクローンが切り刻まれる夢を見るのはもうごめんなんだ。』

全く意味がわからない。そしてこれは頭の準備体操にもなる。故に良い文や創作を書くためにはこれが欠かせないのである、シリーズ化したらいつかどこかの誰かが私の才を誉めてくれたりなどしないだろうか。今でも支離滅裂な文を打っている自覚があるんだ、意識すればどんな破壊工作が行われることか。
 私が無知故に抱える爆弾は、私でさえその成分を知らないのだから全く困る。

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