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小説 足先

 しんと降り積もった雪に裸足で跡をつけた。変わらないような、むしろそれより冷たいような体温をしていた。
 感覚はなかった。何に対しても何も感じなかった。心も凍った。
 僕は、死んだ。


 結局平凡で幸せな人生とは長くは続かないもので、呆気なく失われた。幸せだったというのは死んでからわかるもので、もう2度と味わうことのできないものだと悟った。
 両親から愛をもらってすくすくと成長し、未成年の学生生活は大きな失敗をすることもなく緩やかに過ぎていった。成人を迎えるまで大きな病気をすることもなく、健康優良児、成績優秀、経験豊富で馬鹿で作り物みたいな人間が誕生した。
 22歳、4年間の大学生活は終盤になり、そこそこの有名企業への就職も決まった。
 しかしそこで僕の人生は大きく変わった。サークルでの引退飲み会での出来事だった。
 畳の個室で男女20人が騒ぐ。勢いを増していく古い時代の悪風習に飲まれた「もっと飲めよ」コールとさりげない圧。元々酒は得意じゃない。Tシャツも髪も、酒でずぶ濡れになり、耳元で響く酔った奴らの五月蝿い声。わんこそばのように次々運ばれてくるジョッキ。アルバイトのお姉さんが僕を見て申し訳なさそうな顔で水を置いて出ていった。
 辛い、苦しい、気持ちが悪い。何かが喉に迫り上がってきて口を押さえるも虚しく、隙間からぼたぼたと吐瀉物が漏れ出ていった。そのまま僕は、残りわずかだった体の自由をとうとう失って倒れた。

 僕が目を覚ましたのは翌々日の朝方。頭がガンガンと割れるように痛くて、ベッドや天井がやけに白くて、目に響いた。
 そのうち医者や看護師が僕のところへ来て、状態を確認して去っていった。数時間後、両親が見舞いに来て泣きながら
「よかった、よかった」
とひたすらに言って、しばらく喋って、帰っていった。
 頭も目も痛んで、体も重くて、何も考えられない。意識が遠のいていくのを感じた。
 次に目を覚ましたのは夕方で、面会時間ギリギリに友人が来た。
「ご両親から連絡をもらったんだ、目を覚ましたっていうから。」
 飲み会の詳細を教えてくれた。結局20人中僕を含め6人が酒の飲み過ぎでぶっ倒れ、病院へ搬送された。あとの14人も、正気じゃない奴はいなかったくらいの酷い飲み会だったらしい。
「止められなくてごめんな」
申し訳なさそうにいう友人。みんな正気じゃなかったんだ。仕方がない。
 他愛無い会話を少しして、友人は帰って行った。僕はまだふわふわした気分で、ひんやりとした布団を心地よく撫でながら、程なくしてやってきた睡魔に身を任せた。

 それで。

 気がついたら漫画みたいに半透明な体をしていて、気分は悪かった。誰にも見えないし、声も聞こえないのだろう。宙に浮くことができなくて、幽体にしてはかなり不自由で、重力からは逃げられないのかと若干の落胆を感じた。
 行きたかったところも、したいことも特にはない、作り物みたいな人間だったから、天使か死神か、何者かのお迎えがない限りは、僕はずっとこのままだと思った。
 病院のベッドから降りて床についた裸足。
「…寒い」
 なぜだか感覚が残っていて、想像していた幽霊じゃないことにまた、落胆した。
 幽体離脱に似ていた。自分の葬式を見たくはないが、見に行けるんじゃないかと思うほどの自由があった。
 人間は心残りがあるとこの世に幽霊として留まるというから、つまりもしかしたらこんな僕にも、心残りがあるのかもしれない。
「…あ」
 幽霊ということは死ぬことはないのだ。
 がらりと窓を開ける。母が今夜は雪が降ると言っていた。すごく冷たい空気が入ってきて身震いをした。なんて不便な幽体。
 2階なので別に怖くはない。
「だから死なないんだって、もう」
ひょいと軽やかに、窓から飛び降りてみた。
 ひゅっ、と喉がなった。怖いものは怖かった。足が雪のクッションについた。
「つめたっっっっっ!」
 意識がぐんと引っ張られるような感覚がした。
「…え?」
 幽霊なんかじゃなかった。生きていた。
 僕は雪の中に倒れていた。
 生きていた。死んでなかった。

 …生きていた。


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