見出し画像

多重「人格」のこと(6)

約半年ぶりに、人格がやって来た。仮に、「希死念慮さん」と呼ぶことにする。

「希死念慮さん」について語る前に、私の中にいる、私本体とは別の存在達について、追記しようと思う。

彼女達は、二種類に分類できる。

①別の人格たち。単純化されてはいるものの、別人格と認識せざるを得ない存在達。それぞれ意見があり、私の本体と会話したりする。

②過去に痛みを感じそうになった都度作られた、私の分身たち。私本体の代理となり、痛みを引き受けてくれた。私自身のコピーのような様相で、特に私本体と違う所は無い。「感覚記憶」と同義だと思っている。

双方ともに、認識してから、短くて数分、長くても一両日中には、私本体に溶けていき、融合している。

「希死念慮さん」は、今も私本体に溶けずに、大人しくひっそりと寄り添っている。溶けそうな気配すら無い。

「希死念慮さん」が登場したのは、昨晩の事だ。note上に、『これが私の人生で、いくら不公平でも、腹をくくり、続けて行くしかないんだろうな、と思う。』と書き、その後ジョギングに出かけた先で、やって来た。

「それより、もうひと思いに、全部終わらせてしまいたい。」と、登場するなり「希死念慮さん」は言った。

まずは、寄り添った。「希死念慮さん」の思いは、よくわかる。本当につらいことの多い人生だったから、そう思ってしまうのは、自然な事だと告げた。そして、

「一度だけ、試しに、生きてみよう。それでもやっぱりダメだったり、試してもう気が済んだりしたら、その時また考えてみよう?人生で一度だけ、生きることを試してみない?」と、提案をした。

「希死念慮さん」は、泣いた。とても複雑な思いだ。悲しくてつらくて諦めている。希望はゼロではないけれど、息を吹きかけるだけで消え入りそうに、儚い。そして、泣きながら、「うん。」とだけ言い、以来、私に寄り添っている。近くにはいるものの、私と「希死念慮さん」の間には、境目がある。

度々、無性に飛び降りたい衝動にかられるのは、この「希死念慮さん」の所為だったのだろうか。

この人格からは、とても暗く深い悲しみを感じる。必要でなくなるまでずっと、寄り添っていようと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?