禅とお日様 前後際断

禅はお日様のようにそのときそのときで表情が違います。禅の教えもお日様もそこにあって、でも、そこにいる人にとっての響き方、感じ方はコロコロ変わります。私にとって禅は自分の状態に気づかせてくれるものです。禅語に触れ、その言葉からいろいろ考えることで自分がどう感じるか、心が晴れる日も心が曇る日もあります。

桜の季節となり、いろいろなことを思い出したので、一度言葉にしてみようと思い書き出してみました。

前後際断(ぜんごさいだん)

この禅語は、「前(過去)と今、今と後(未来)の際を切り離して今を生きよ」という意味です。人はどうしても過去を気にするし、未来への不安で押しつぶされることもあります。でもその中でも過去や未来にとらわれずに今が大切と気づかされる、そんな禅語です。

2000年の今頃は就職活動中に病に倒れ、どん底でした。それまでの苦労は無になり、この先働けるのかという不安にまみれ、毎日笑うことも泣くこともなく時間が過ぎ去るのを待って過ごしていました。これ以上のどん底はないだろうと思いながらも、就職できてもなかなか馴染めずうまくいかず、転職も繰り返しました。うまくいかないことが続き、自己否定、過去への後悔、未来への不安の中で溺れていました。なんとか生き延びようとしてもすぐに落とし穴があったり、蛇が出てきたり、そんな感じで、進む方向も出口もゴールも見えない中ポツンと取り残されたようでした。

坐禅をするようになって、自分と向き合えるようになり、自分を認められるようになっていましたが、なかなか自分を活かすことができずにいました。自分を活かすことが大切ということに気づけていなかったからです。そんなときに素敵なコーチに出会いました。それまで様々なコーチと出会い、伴走してもらったり、リードしてもらったりしていましたが、それに加えて、そのコーチと自分自身を知る努力を重ねました。私自身を知り、私が私をうまく刺激していくことで、苦しみよりも楽しみが増えていくということを学びました。自分が喜ぶこと、嬉しいことに取り組むと、自分が楽しめるからこそパフォーマンスを出せることを実感しました。そして、自分が悲しいこと、嫌なことを楽しいことや嬉しいことに変えることでさらりと乗り越えられるようになりました。

私は運がないのか、何かと関係性に課題があるグループに属することが多いです。私にとってはお化け屋敷や猛獣園のように感じる場合もあります。その中に地図もガイドも歩き方もわからないまま放り込まれることが多く、右も左も前も後ろも上も下もわからず、どんな怖さがあるかわからなくて、毎日ビクビクしていました。特に過去を知らないこと、メンバーのやり方を知らないことに対してそれらが暗黙知化している中でそんなことも知らないのかと責められることもあったので、その責めを攻めに感じて勝手にダメージを受けるようになっていました。

ただ、いつのまにかなぜか落ち着きを持って対応することができるようになっていました。自分の得意なことに目を向けて、その力を最大限に活かすために何ができるかを考えて行動するようになりました。自分が知らないことは知らないし、自分がわからないことはわからないので、自分の取り組むことと関係がなければいい意味でスルー出来るようになりました。自分の取り組むことに影響があるときには、知らない、わからないことは明確にして、情報収集をしたり、教えてもらったりするようにしていました。オンラインでのコミュニケーションだからこそ直接話にくいときにはチャットで気軽に聴ける雰囲気があり、この部分はとても助かっています。

これは冒険ゲームでパーティを組むときに意識することに似ています。このメンバーがいると攻撃は無敵だけれども守備が弱く、こっちのメンバーがいるとパーティ全体の好守バランスがとれるということがあります。今このパーティに必要なメンバーが誰かを考えながらメンバーの入れ替えをして、今のベストメンバーで最大のパフォーマンスを出せるようにしてゲームを進めていきます。メンバーを入れ替えるから、それぞれの得手不得手も知ることができるし、そのときのベストメンバーを考えることができます。メンバーそれぞれを知ること、その場その場で必要なことを理解すること、今に着目することでその観点が養われます。

自分の能力も同じです。今、最大のパフォーマンスを出すためにできることが何かという観点で物事を考えられると、自分の能力の中で今活かすものが何かに気づくことができ、過去にも未来にもとらわれずに、今何をするか、優先的な対処が何かということを意識できます。今の自分を知り、今の自分を活かすことに取り組んでみませんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?