禅とお日様 和顔愛語

禅はお日様のようにそのときそのときで表情が違います。禅の教えもお日様もそこにあって、でも、そこにいる人にとっての響き方、感じ方はコロコロ変わります。私にとって禅は自分の状態に気づかせてくれるものです。禅語に触れ、その言葉からいろいろ考えることで自分がどう感じるか、心が晴れる日も心が曇る日もあります。

2022年、新年が始まりました。今年はnoteで自分らしさを探すところを記録していきたいと思います。毎週書きたいところではありますが、頭の中がなかなか整理できないので月2本を目標に書いていこうと思います。禅のこと、自分のこと、自然体の追究をしていきます。

今年のテーマは 和顔愛語(わがんあいご)です。 
穏やかな顔で優しい言葉を使うことで自分に優しくなれるし、周りにも優しくなれると解釈しています。自分探しの旅の真っ最中の私は、どうしても不安に駆られて愚痴っぽくなってしまいます。でも、愚痴を並べても何も変わらないし、それを聴いているのは自分でもあることに気付きました。自分に優しく、笑顔になれるかどうか、優しい言葉を使えるかどうかを今年の判断軸にしていきたいと思います。

新年の初詣、地元の神社でおみくじをひきました。その裏にあった「神の教」の冒頭に『笑う門に幸来る、ねてもさめてもにこにこと』とありました。今年初めて出会った言葉がこちらだったことから今年は笑顔溢れる年にしたいと心の奥底から沸いてきました。地元の神社からのパワーもいただけてとても嬉しかったです。

和顔(わがん)

今年は1月3日に七福神巡りをしました。いろいろな寺院を回り、たくさんの仏様に出会いました。仏様の顔は穏やかな顔も恐い顔もあります。私は穏やかな顔の仏様を見ると安心して包まれているような、そんな感覚を持ち、心が温まります。逆に少し怒っているような印象を受ける仏様を見ると気が引き締まるような、少し緊張してしまうような、そんな感覚を持ちます。人は相手の表情を自分なりに解釈して、その影響を知らないうちに受けているものです。だからこそ「和顔」が必要だと思います。

「表情がかたい」と言われたときに、自分が穏やかになれることを思い出すと和顔に近づけるのかもしれません。私の場合、海辺で波の音を聴いているとき、自然の中で鳥のさえずりを聴いているとき、心に余裕が生まれ、ほっとします。そういう意味でも、緊張しているときはできるだけ自然音に意識を向けて過ごすようにしています。

愛語(あいご)

私は「お笑い」が苦手です。「ぼけ」と「つっこみ」の「つっこみ」が特に苦手でした。私がよく目にしていた「つっこみ」は攻撃的で暴力的、そんな印象を持っていました。やりとりはテンポ良く進み、単純明快でわかりやすい一方で、演技だとわかっていても、「つっこみ」を通して、「この人怖い」と思えてしまい、その印象を引きずっていました。なんで叩くんだろう?なんで怒鳴るんだろう?と、やっちゃいけないと言われてきたことが平然と行われている、そんな印象を持っていました。

「なんでやねん」というのも初めはとても抵抗を感じました。手の動きが伴っていて、ちょっと暴力的な印象を持っていました。でも、慣れって怖いですね。いまでは「なんでやねん」というのを聴いてもそんなに怖くはありません。それは、日常の中で使われることが多くなり、暖かみのある使われ方に触れる機会が増えたことが影響しています。

これは自分が使う言葉も同じだなと感じました。自分が使う言葉がきついと、その言葉を発している自分も耳にしています。つまり、自分が苦手な言葉を発していて、それを自分で聴いてしまっていたことで、自分で自分に恐怖を与えていたことに気付きました。

お笑いの終わり方はさっぱりしています。あとを引きずらないというか、パッと画面が切り替わるように、転換するイメージがあります。そのおかげで見ていた人は頭の切り換えができるのかもしれません。その切り替えの速さにも最初は違和感を覚えましたが、パッと切り替わるからこそひきずらないということだったのかもしれません。

私は今でもお笑いや辛口コメンテーターの言葉が苦手で、受け止めてしまうので、そういう人たちが出ている番組は避ける傾向はあります。私にはもっと暖かい言葉溢れる世界が過ごしやすいなと感じています。

「和顔愛語」

今年はいろいろなことを整理して、始める、そして、行動する年にしていきます。そういう意味でも「自分探しの旅」に取り組んでみます。その中で自分が「和顔愛語」を意識できるか、そして、ご縁を大切に、人と人とのつながりを大切にして過ごしていきます。どうぞよろしくお願い致します。


#note書き初め

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