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さよならした言葉たち

若い頃、スピリチュアル系思想が好きだった。例えば「ご縁」という言葉。〇〇さんと出会えたのばご縁だったとか、親しい友人や恋人とお別れした後でも「きっとご縁が無かったんだわ」と何かとやたら何でもご縁という言葉を持ち出してきた。でも今は「この人に会いたいから私は会っている。この先この人とどうなるとうと関係ないし知るよしもない。ただ私たちは今会っている。それだけのこと」っていう風にシンプルに考えるようになった。というよりシンプルに考えた方が気持ちが楽だった。ご縁って言葉を使ってしまうと何かにとらわれてるように感じて苦しくなるからだ。

もう一つ好きだった言葉は「因果応報」。以前は何かとこの原因のせいで今結果こうなってしまったのではないかと、過去と今の両方に囚われていた。この言葉についてもっとよく考えると、あの凶悪的な世界的な殺人事件もら、子供を虐待した親も彼女を殴ったDVD男も気弱な生徒を他の生徒と結託して虐めた教師もみんな罰が下るのか?そんなことはない。誰かの根回しがあったりして罪が軽くなった人も大勢いる。罪の意識なんて全く無くケロッとして日常を過ごしている人もいるだろう。

結論何が言いたいかというと、自分は人に対して悪いことや傷つけることをしてしまった。っていう罪の意識を持つから一つ嫌なことがあった時に「これはあの時の自分に対しての仕打ちか〜」って思うのだけど、違う。

ただその事柄が起こっただけ。自分の罪の意識とかどうでもいい。ただ起こっただけなので今後は気をつけましょうって肝に銘じとけばいいことだけ。それ以上もそれ以下も深く考える必要はない。ややこしく考えると頭が重くなる。

昔は好きで依存して執着していた言葉たち。大事にお守りのように胸に刻んだりしてたけど、数年以上経って今はどうでも良くなった。今の私とはどうやら相性が悪いみたいで。なんかしっくり来ないのだ。その言葉だけでなく、その言葉たちを使っていた頃の当時の周りの人間関係も一気に古びて見えた。哀愁すらない。自分が歳をとったとか、成長したとか、これまた解釈はいかようにも出来るけど、でもその解釈だってどうでもいいのかもしれない。ただ私の昔の考えがそれだった。でも今は違うよ、と。ただそれだけのことなのかもしれない。

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