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半生

ふと、これからの事を考える機会がありました。
この先の人生を考えるにあたって、これまでの事も考えなければならないと思い、なんとなく書いてみます。

出生。

なんでもない普通の家庭に生まれる。
この頃の記憶は全くないですが、きっとそれなりに楽しかった気がします。
程なくして妹が生まれました。
所謂年子(どういう字を書くのかわからない)で、妹がお腹にいる時は膨らんだそのお腹の上に乗せるようにして抱かれていたそうです。
親戚一同から怒られ、抱くのを代わってもらったのだと祖母から聞かされました。

保育園。

今では考えられない事ですが、同じクラスの男の子達とサッカーや泥遊びをして遊んでいたのを覚えています。
体を動かすことが好きな、わんぱく少女でした。
クラスには3人しか男の子がおらず、ほとんどが女の子で、外で遊ぶ気にならない時は室内でおままごとや粘土遊び、絵本を読んだりして過ごしていました。
そのくせ苦手な人間が多く、この頃から既に現在の人間関係への希薄さが片鱗を見せていたと思います。
とはいえ、自由奔放で気まぐれで、元気な子供だったと思います。

小学校。

人と関わることが苦手だと認識し始めたのはこの頃。
なんとなく自分が人と違う気がしていました。
教室でクラスメイトが話しているのを、図書室で借りた本を読みながら聞き耳を立てていました。
そんな悪趣味な事をしながらも、仲の良い子はいて、週末にはお泊まりをしてお風呂場でプールを作ろうとしたり、授業中にこっそり手紙を回して先生にバレて怒られたりと、ごくごく普通の、愛らしい小学生でした。

3年生までは。

ある時突然わかってしまったのです。
人に対する違和感の原因に。
家庭でした。
母は家事全般ができず、家で出てくるご飯がとても美味しいとは言えない代物ばかりでした。
薄焼き卵を白米の上に乗せた「オムライス」なるもの。
食卓に並ぶ生キャベツ半玉とマヨネーズ。
おやつと称されて渡される生にんじん一本。
これだけであれば、料理が壊滅的な人で済むかと思うのですが、それ以外にもありました。
お風呂は2週間か3週間に一度。
その間もちろん歯磨きも洗濯もしていません。
家族というものは洗脳、どれだけ酷い食生活でも、不衛生な環境でも、理不尽な暴力さえも、子供の小さなコミュニティではそれが世界の全てなのです。
疑問など抱く余地はないのです。

友達のお母さんに「晩御飯、好きなもの作ってあげる」と言われ、私は意気揚々と「オムライス!」と答えました。
出てきたのはケチャップライスにふわふわの卵が乗った、レストランの様なオムライスでした。
食事をとり、互いに好きな漫画の話をしていると、
「早くお風呂入りなさい!」とお母さんに怒られたのです。
気付いてしまいました。
漠然と感じていた人との違和感の正体に。
絡まった糸がスルスルと解けていく安堵と共に、自分が汚くて惨めで、堪らなく恥ずかしくなりました。


それから友達の家に泊まりに行くことはおろか、学校でさえあまり話さなくなり、不登校が始まりました。

そうして自分の家がおかしいと気付いてまもなく、2人目の妹が生まれ、その2年後には弟が生まれ、その後すぐに両親は離婚。
私達子供は母と暮らすことになりました。

中学校。

離婚してからというもの、母は明らかにおかしくなっていった様に思います。
部屋中に散らばった生ゴミ、使うことのない100円均一の便利グッズ、洗濯されていない服の山で使えなくなったベランダ、見渡す限りどこにでもいるゴキブリと蝿。
妹2人と弟を置いて、1人で祖母の家に逃げました。
耐えられなかった。
おかしいと気付いてからは本当に早くて、それまでなんの疑問も抱かなかった事全てが気持ち悪くて仕方がなかったのです。
そうして1年半ほど祖母と2人で平和に暮らし、不登校も治りました。
今度は祖母が乳癌と診断され、摘出手術の為に入院することになりました。
となると私は祖母の家で1人。
母はそこに目をつけました。
自宅を片付けずに綺麗な家に住む方法を見出したのです。
またあの人と暮らすことになりました。
祖母が退院後も居座り、綺麗好きだった祖母の家は2ヶ月も経たずにゴミ屋敷へと様変わり。
祖母は糖尿病も患っており、年々悪化していた上に手術をしたものですから、掃除をする体力などなかったのです。
私が片付ければ良かったのですが、ゴミ屋敷が完成するまで気付かなかったのです。
半年もするとゴキブリと蝿の巣と化しました。
不登校の再スタートです。
私にとって絶望でした。
学校では体操部に所属し大会に向けて必死に練習をしたり、友達もできて楽しく平和に過ごせていたのに、幼少期からの洗脳は中々解けなかった様で、家庭の異変を止めることができなかったのです。
家にいることは嫌でしたが、外に出てしまえばまた自分は汚いものだという気持ちが強く働いてしまう為、学校にも行けなかったのです。
昼間は近所の公園の遊具で隠れる様に昼寝をしたり、死守していた自室に篭ってインターネットに浸っていました。

そんな時に声や歌を褒められ、声優という仕事に憧れを抱きました。
調べていくと、声優養成所というものがある事を知りました。
しかし、生活費をギャンブルに注ぎ込んでしまう母に習い事などさせてもらえるわけもなく、だからと言って衰弱して年金で暮らしている祖母にお願いする事もできず、私は父を頼りました。

昔から父は好きでしたが、父はシャイなのかとても寡黙な人という印象で、仲が良かったとは少し違った不思議な関係でした。
それ故に最初は自分の夢の為、父を利用しようと、月に1、2回2人で会いご飯に行って他愛もない話をしながら、会っていなかった約2年を埋めるように打算的に距離を詰めていきました。
そしてようやく声優養成所にいきたい、と打ち明けました。
父は快く了承してくれ、絶望の中に差す一筋の光を掴むことができました。

しかしそれも長くは続けられませんでした。
母から逃げなければ私達子供はまともに幸せを掴めないと気がついたのです。
妹2人と弟を連れ、児童養護施設に逃げました。
もちろん外に出ることはできず、養成所にも行かなくなってしまいました。
お芝居や歌が好きだった私には地獄の様な場所でしたが、あの人と暮らすよりは確実に幸せへの一歩だと思ったのです。

高校。

中学の卒業間近になって、父が私を引き取ると申し出てくれました。
私の行きたかった演技の専門学校にも通わせてくれると言うのです。
打算的に父に近づいた自分が恥ずかしくなりました。
父は私を愛してくれていたのです。

お陰で進学することができ、アルバイトをしながら演技を学び、同じクラスの誰よりも努力をした自信があります。

些か意識が高すぎて、台本を覚えてこなかったクラスメイトを空き教室に呼び出したり、クラス全体の意識が低いと感じた時には放課後に全員でディベートをしようと持ち掛けたり、クラスメイトからしてみれば迷惑な人間だったと思います。
ですが必死だったのです。
父があの地獄から救い出してくれた事、志望校に通わせてくれたこと。
そして私の成功を誰よりも願ってくれていましたから。
期待に応えたかったのです。
私を愛してくれていた父を利用しようとした私ができる唯一の贖罪だと思っていたのだと思います。

1年必死で詰め込んだ結果、転機が訪れました。
上京し、お仕事を頂けることになったのです。
父のこの上なく嬉しそうな笑顔と弾んだ声が忘れられません。
私といえば、少しは恩を返せたのかなと安堵の感情の方が大きかったのを強く覚えています。

上京。

ここまで長々と書いてしまったのでかなり割愛しますが、一言で言うと最悪という言葉になってしまいます。
もちろんいい事もありました。
私の夢を応援してくれる人が増え、声優としてのお仕事もいくつか頂き、その中で大きな目標だったアニメにも出演することができました。
オリジナルのソロ曲をだしたり、お芝居以外での表現を見出せたのも上京したおかげです。
ですがそれなりに重い精神疾患をいくつか患う事になってしまいました。
その原因とはもう決別していますが、未だ完治はせずこれからも付き合っていくことになるものなのでしょう。


そんなこんなで今の私がいます。
ここまで想定より長くなりすぎました。
これは私の過去編ということで、未来編は後日また書こうと思います。

こんなにも長い記事を最後まで読んで下さりありがとうございました。
また。

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