みのフライの水玉自伝

この読書感想文は読書感想文の皮をかぶった、アーバンギャルドとファンとの大規模な文通とも捉えられると思う。アーバンギャルドが本という形で、こちらは読書感想文という形で、互いに手紙を送る事になる。この発想は自意識過剰かもしれない。それでもそう思わずにいられない。

まず私は天馬厨だ。

松永天馬が好きだ。

松永天馬の文章が好きだ。音楽が好きだ。歌詞が好きだ。映画が好きだ。詞が好きだ。言葉が好きだ。

しかし当たり前だが、内面は知らなかった。知らなくても好きな事に変わりはないし、知らなくていいと思っていた。

「アーバンギャルドクロニクル 水玉自伝」を読んで、少し(きっとこれでも少しなのだと思う。松永天馬を形作るものはたくさんあるだろうから。)知れた気がして、自分でも驚いたが、嬉しくなったのだ。

好きな人の内面を知れる事って嬉しいんだな、という、思えば当たり前のような事に今更気付いた。私は自分の感情を自分で把握することが苦手だ。気付いた頃にはストレスが限界まで来ていて、体に不調が出ることもある。そんな中でもちゃんと嬉しかったので、きっと本当に嬉しかったのだろう。

自伝を書いてくれてよかった。本として残してくれてよかった。知れてよかった。

私は自分の誕生日会を開かれるのが嫌なタイプの人間だ。天馬さんもそうだと知って、一つの共通点を見つけた気持ちになって、嬉しくなった。私はバースデーライブは開かれた事はないが、ファンから「誕生日おめでとう!」と言われるのは平気だ。むしろ、嬉しいぐらい。友達や家族からの「誕生日おめでとう!」は心底嫌になるのに。それはファンからの言葉になら「演者」として応えられるからだろう。

音楽についても、私もリリックや短歌を書いている時か、裏垢で誰も私の事を知らない環境かでないと自分の気持ちを言えない。表向きのアカウントでは可能な限り隠してしまう。なんなら短歌ですら嘘を書いている時がある。たまに意見を言う事はあるが、それですらオブラートを何重にも重ねて、炎上したりしないようにしてから発信する。臆病なのだ。自分をさらけ出すのは怖い。自分の本当のことを書くなんて、それこそ松永天馬へのファンレターを書く時ぐらいかもしれない。

「歌や物語のなかにだけ、言いたいことを忍ばせるんです。」という文字列を見た時、どれだけ嬉しかったか。松永天馬もそういう面を持っているという事実が、どれだけ嬉しかったか。

共感できる所が節々にあるのが本当に嬉しい。それでもところどころ知らない単語が出てきて、脚注と本文を行ったり来たりするのもまた嬉しい。松永天馬を知れるのが嬉しい。もしも松永天馬と同じ年代に生まれてきて、もしも松永天馬と同じような音楽を聴いたり本を読んだりして生きてこれたなら、もっと嬉しかっただろう。私はリアルタイムのP-MODELを知らない。

そして、私はファンの中では新参なので、過去の松永天馬も知らない。自伝を読み、私の知らない松永天馬を知って行くにつれ、「もっと早く好きになればよかった」という思いがどんどん貯まっていった。もしタイムスリップできるならアーバンギャルド結成のその瞬間へ飛びたいぐらいだ。

ここまで松永天馬の話しかしていないので説得力がないかもしれないが、私はアーバンギャルドも大好きなのだと再確認した。生まれてきてくれてありがとう。この世で出会ってアーバンギャルドを結成してくれてありがとう。この素晴らしい世界が現実のものでよかった。演者とファンという立場で同じ世界に生き、出会えた事が奇跡のように美しく、たまらない。

アーバンギャルド、そして松永天馬の存在は私の中で神格化されていて、神か何かを見ている気持ちになる。水玉自伝はTwitter上で「赤い聖書」と呼ばれているが、冗談や比喩表現ではなく、本気で聖書だと思っている。私からすると、神様たちが授けてくださった大切な本なのだ。

本文中に自分が行ったことのあるライブの名前が出るたびに、その頃の記憶が蘇り、懐かしくて涙が止まらなくなる。「シンジュクモナムール」をライブで聴いて自殺を思いとどまった事、物品販売でたくさんグッズを買った事、チェキを撮ってもらう時に緊張して何も話せずに終わった事、終演後に仲のいい人と泣きながらタバコを吸って「今日もよかったね」と言い合った事も。ライブの楽しさは音楽だけではない。

昨今は新型コロナウィルスの影響でライブがない。もうライブハウスでのライブは出来ないのかもしれない。もう二度と現場はないのかもしれない。そうなれば、この記憶もいつかは風化してしまうのだろうか。思い出なんかに変わってほしくない。ライブハウスでのライブを過去のものにしたくない。早く密になりたい。

脱線したので話を戻しましょう。

読んでいて気付いたが、松永天馬はファンのことをよく覚えている。そういう所が好きなのだ。ファンは沢山いることだし、そんな人数覚える必要性はない気もする。それでも覚えるのだろう。

松永天馬を知れば知るほど、松永天馬を好きになっていく。それと同時に、やはり考え方は合わないな、とも思う。社会問題に対する考え方が180度違う。だが、そんなことで嫌いになったり幻滅したりするわけがない。松永天馬は松永天馬だが、そもそも一人の人間なのだから、意見が合うはずがないのだ。それに、もしも全部の意見が合えば、違う考え方を知らずに人生を過ごすことになってしまう。考え方に同意はできなくても、理解する事は出来る。だから、考え方は違う方が良い。そうだろ?

好きなバンドは数多あるが、信頼しているのは挫・人間とアーバンギャルドぐらいだ。共に病んでいるファンが多く、傍から見れば似てるかもしれないが、挫・人間とアーバンギャルドでは種類が違うように思える。挫・人間は痛みに寄り添ってくれるタイプであるのに対し、アーバンギャルドは自分の足で立たねばならないと激励してくれるタイプだと思っている。どちらももちろん良い。(挫・人間と対バンしてほしいです。よろしくお願いします。)

何故こんなに松永天馬が好きなんだ?と思ったので、自己分析してみようと思う。私は義務教育課程ではずっといじめられていて、そのせいか未だに自己評価がゴミのように低い。自信がないのだ。一方松永天馬は、自分に自信があるのだろう。自分を認めることすらできない私と違って、ちゃんと自分を認められるのだろう。この強さは、時に刃にもなるかもしれない。先程も書いたように、考え方も合わない。何故好きなのか?おそらく、考え方を曲げない強さや、言葉で傷付く人がいたとしても自分を貫き通す強さに憧れているのだろう。言葉は人を傷付けるということをわかった上で、傷付ける覚悟がなければ、言葉を使いこなせない。そしてチャレンジ精神。「松永天馬殺人事件」を撮った際に自腹で制作費を出したと聞いた。私なら爆死すると怖いので、映画を撮ってみよう!とはそもそもならない。しかし松永天馬はここでもやってくれたのだ。衝撃的なラストシーンを入れ、映画好きからの賛否両論を浴びても、それをまた前に進むエネルギーに変えているように見えた。私の思う松永天馬は「強い人間」だ。私は私と違うモノをたくさん持っている松永天馬が好きだ。私は松永天馬のような生き方も考え方もできないだろう。私は松永天馬になれない。なれないからこそ惹かれるのだろう。合わないからこそ信頼できるのだろう。最初に書いたが、松永天馬へのファンレターでなら、私は本音で話せるのだ。というより、松永天馬へのファンレターでしか本音を出せなくなった。松永天馬なら長い手紙でも受け止めてくれる気がするからだ。今日、今この瞬間だって松永天馬への手紙を書いている。(何枚送るんだ?)

「松永天馬」という名前が既に神々しく見える。自粛期間で長期に渡り会えないというのもあり、「本当に松永天馬は実在するのだろうか?もしかしたら神なのかもしれない。」と思い始めている所だ。水玉自伝での人間臭いエピソードを読んだ今でも、松永天馬が実在している実感が湧かない。


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