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愛、祈り、花、僕らの行く先と誰かの杖
吐いて捨てるような花の幻覚をいつも見ている。
枯れていても生きていてもどっちでもいい。
ただ花を思い描いては、いつかすべて帰結するような感覚になる。
たぶん私が花の向こうに見ているのは愛で、生き方で、誰かの正しさだ。
花はいつだって私の感情の全てで。
花束を抱えて生きると言えば聞こえはいい。
聞こえだけだ。
誰かよりもたくさんの花を抱えて生きるという事は、単純に荷物が重いという事でもあるし、散るさまをたくさん見届けないといけないという事でもある。
両手いっぱいの花に手を塞がれて、ただ立ち尽くし、時折枯れる花を記憶の中で弔う日々は、どこかまでいったら何かを生み出せるものであるんだろうか。
ただ唯一この日々に意味を見出せるとしたら、両手を塞ぐ花のうち1本を、誰かに贈るその瞬間だと思うのだ。
すこしずつすこしずつ見つめて、はなひらき、生命を捉えたちいさな1つを、あなたの糧になればと、あなたの杖になればと渡すことができるのが、たくさんの花の利点なのだ。
どこにもいけないのかもしれないな、と漠然と思う。どこかに行きたいとも思う。
でも花を捨ててしまう事は怖くて。
捨てたらこの花はどこに行くんだろうか。私はどこに行くんだろうか。はなひらいたのに、何にもならずに終わるんだろうか、と。
だからと言ってずっとこうでいいわけでもきっとないのだ。
人間は前に進まなきゃならない。私もいつか前に進まなきゃいけない。
だから花を抱えたままではいられない。
いつか意外とそうでもない事を思い知るかもしれないし、本当に捨てることになるのかもしれない。
ただ今は、ここから歩む先がこの花たちにとって、それを抱える私にとって幸福でありますようにと祈るだけだ。
私にとって祈りが、どんなことがあっても最後まで残る1輪の花だ。
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