『たったひとりの聴衆』という寂しさ

私が、ほかの人は、人や本、モノから音を感じていないということを本格的に知ったのは、2021年の年始のことだ。

そもそもの始まりは、2020年12月の年末、トラウマケアの進行過程で、希死念慮にまで至ってしまって、自分の中では精神科への入院さえ渇望しながら寝込んでいたことだと思う。

どうしても、母(虐待サバイバー)に会えなくなった。

母は、音が大きすぎる。私は、自分の音が知りたいのに、母の音はいつも大きすぎて、飲み込まれてしまう。自分の音が全然、聞こえなくなるのだ。

だから、今は会わないと決めた。こんな風に母に言えるようになったのは、トラウマケアのおかげでもある。

コロナ第三波での外出自粛もあって、年末年始だったけど、家から出ず、家族以外の誰にも会わずに済んだ。

あの時期には、頭の中の4人いた人格の内、すでに3人が統合していたこともあって、落ち込んではいたけど、未だかつてないほど、頭の中が静かだった。

年始にようやく気持ちが安定して、夫に話した。トラウマケアを通して、夫のことは信じられるようになり、自分の内的世界を共有したり、相談したり、頼ったりできるようになっていたからだ。

それに、解離性同一性障害の可能性を指摘されるまでの私は、ある程度みんな頭の中に別の私が居て、困ったときは頼ってるんだろう、と思い込んでいた&言ったら頭変な人と思われるかもと恐れてもいたがために、長い間誰にも言わず、結果的にそれがトラウマからの症状だと自覚できてなかった経緯があるから、まずは自分と他人は違うのかもしれない、という前提をもって、気がかりなことは人に話を聞いてみたほうがよさそう、という結論に至っていた。

「やっぱり、母に会わなかったのは正解だった。それに最近外も出てないし誰にも会ってないから、やっと少し自分の音が聞こえ始めた感じ。いいことだよね❓

っていうか、念のため、ちょっと聞いてみるけど、前、文章から匂いがするって言ってたよね、攻撃的な文章には嫌な匂いがするって。私は、嫌な音がするんだけど、文章とか人とかから音ってする❓」

彼の答えは

「いや、聞こえたことはないね。一回も、ない」

ほう、、、と思った。

やっぱり、、、とも思った。

嘘でしょ❓え、ほんとに❓本当に、誰からも本からもモノからも、なんの音もしてないわけ❓一度も❓

まずい、、、まずいぞ、、、。

私、病気❓またこのパターン❓なんかこれ、治療したほうがいいの❓え、でも、この感覚なくなってもらったら、ちょっと困るんですけど。だって、どうやって物事を決めるの❓

仮に私が病気だとして、なんの迷惑もかけてないし、自分も困ってないし、いいですよね❓

ああ、いうんじゃなかった。。いや、ちゃんと、わかってた気もする。変な人、って思われるに違いないから、言わないほうがいいって。人に言わなくても、生きていけるって、ちゃんとわかってた気もする。

共感覚、という言葉がパッと頭に浮かんだ。

「文字や絵に色が見える人がいるらしい。

なら、文章や人に音が聞こえたっていいじゃないの。何が悪い。」

そういう考えが湧き上がってきたのは、自分の思いだったのか、子供の自分の声だったのか。

その頃には、私と、子供の自分との境界線はかなり曖昧になっていた。

私、共感覚なんじゃないの。自分を否定する心の動きは、トラウマの症状だっただけ、これからの私は最後まで自分の味方、自分を肯定してくれる情報を徹底的に調べ尽くす。当事者研究のつもりで、共感覚について、調べられるだけ調べてみよう。

行き着いたのは、次の動画。

■音視共感覚(視覚→聴覚)のテスト
次の動画を見て、音が聞こえますか?

https://m.youtube.com/watch?list=RDCMUCt5OA3LingpZBeEyPYmputQ&v=hLhuRIeHj6Q&feature=emb_rel_end

これは、音が聞こえる。

最初、いやいや、これほんとは、音がでてるんでしょ、と思った。ドッキリかなんかでしょ❓騙されないよ私は。これ、無音ってほうが嘘でしょ。

スマホの音量を確認した。

あれ、音量、ゼロ。

もう1回聞いた。

やっぱり、聞こえるけど❓

丸いのが前に出てくるときは、シャラララ~ってたくさんの軽い鈴みたいな音がして、丸いのが後ろに下がるときは、むにゅむにゅむにゅ~ってスライムをぐにゅぐにゅするみたいな音が聞こえる。

次は、ヘッドホンで音楽を聞きながら、見てみた。

そしたらわかった。音楽は耳から聞こえるけど、同時に、動画と連動して頭の真ん中で音がする。

面白いじゃん。もっと調べてみた。

次のまとめ記事が見つかった。

■共感覚系動画のまとめ記事

http://karapaia.com/archives/52283826.html

いや笑えた。
確かに、全部音聞こえるけど、言われてみれば確かに、これ全部無音の動画。
鉄塔は、ドスンドスン!ってゴジラか?ってびっくりするくらいの大きい音、縄はヒュンヒュンて風を切る音と地面にパシッとつく音で、縄の手前の方が音が大きくて、奥側の方が音が小さい。奥行きのある音がする。動画は
平面だけど、音は立体的。音の大きさに距離がある。

ゾウはシーソーのピヨーンピヨーンって音と、ゾウがドスンって着地する音がちょっとずれつつ同時にする。
手はドンドンパッ。
光はいろんなとこからキラキラキラキラって刺さるような高い音(全然かすかじゃない、頭の真ん中に突き刺さる感じで痛い)、遠い場所の光(小さい光)は小さい音で、近い場所の光(大きい光)は大きい音で、同時にたくさんの音が聞こえる👂

家族にも見てもらったら、夫と上の子は聞こえなかったけど、下の子は、私と同じように聞こえると言った。(ただし、最後の光の動画は聞こえなかったらしい)これは、かなり嬉しかった。

下の子曰く、

「え、じゃあ音が聞こえない人は、どんな風に見えてるの❓そっちの方がわからない」

同じ無音動画を見て、音が聞こえるひとと聞こえないひとがいる。
どうして無音の動画に音を感じる(聴力ではない)のか?
自分なりに調べてみると、

・マガーク効果
・音象徴
・感覚間協応
・共感覚(音視共感覚)

が、この現象の説明に役立ちそうなキーワードとして上がってきた。

共感覚の当事者が書いた文献も何冊か取り寄せて読んでみた。

似てる気もするし、違う気もする。

ほんとそれ!と思うところもあるし、いやでも私、色は全然みえないんだよね、、、やっぱり違うのかも、病気なのかも、、

ちなみに、取り寄せた共感覚当事者が書いた本3冊はどれも全然違う音がして、私のお気に入りの音の本はこちら。

『ぼくには数字が風景に見える 』(ダニエル・タメット、講談社文庫)

この本の感想は、別テーマに回そう。最近の記事で一番これに近い、と思ったのは、この人の記事。

■ニール・ハービソン

https://wired.jp/2018/01/01/neil-harbisson-interview/

I finally found YOU!

そう思った。記事のコピペが著作権的に良いのかちょっと不安だけど、共感した部分を抜き出してみる。

「もちろん、似た感覚を人に伝えることはできる。音楽を聴いて得た色を絵に描いたり、写真やヴィデオ、映画として表現するなど、昔ながらの芸術の形式を通じてね。でも、体験の最初の部分を共有する方法はない。それは、ぼくの心や頭のなかだけで起きていることだから。そのとき、ぼくはアーティストであると同時に、たったひとりの聴衆なんだ」

「人は自分が人間かそうじゃないかなんて考えながら生きていないよね。性同一性障害のある人が『ぼくは男だ』『わたしは女です』と主張することはあっても、『おれは人間だ』なんてわざわざ言う人はいない。それくらい、人間であるのは当たり前のことだと誰もが思っている。だから人間という種のなかだけで、『あの人は目が見えない』『自分は五体満足』と比較に忙しいんだ」ハービソンは人間社会の息苦しさを、そう表現した」

そう。それ。

私は、寂しい。

いつもいつも、音を感じてるわけじゃない。

でも、大好きな曼荼羅を前にしたときの、シャラシャラシャラ〜という、鈴の音のような、天上の音楽とでも言いたいような、なんとも言えない、心地よい音に包み込まれて、いつまでも、曼荼羅の前に佇んで音に聴き惚れている、あの感覚。

ムーミンの原画展に行ったときに、紙の端に走り書きのように小さく描かれたムーミンのイラストから、大きく印刷されたトーベ・ヤンソン本人の写真と驚くほど似た音がして、思わず原画展の通路を引き返し、写真の音を聴き直しに戻って、やっぱりそっくり、トーベはムーミンに自分を投影していたのかな、可愛い人だなぁ、とニンマリしてしまう、あの感覚。

そういう、私にとっての現実的な感覚を、本当に、誰も、一度も、知覚してないの❓

この音を表現するには、言語はあまりにも脆弱なツールだ。

だって、楽器の音色は、近いけど、違うのだ。

私の頭の中で確かに鳴り響き、感動を引き起こしてくれているこの音とそっくりそのまま同じ音、は、聴力を使って聞く音の中には見当たらない。

千も万も言葉を綴っても、この体験を正確に伝える方法が、今の私にはない。

それはすごく美しい音で、素晴らしい体験なのに、誰ともそれを共有できない。

広い宇宙空間に放り出されたような、そんな感覚だ。

「地球は、青かった」

宇宙から地球を見た人類最初のひと、ユーリイ・ガガーリンは、そう呟いた。

きっと、彼もこの寂しさを味わっただろう。

そしてようやく、見つけた、この音の感じを共有できそうなひとも、「たったひとりの聴衆」と表現している。

このひとに会って、同じ絵画を鑑賞してみたい。私はたぶん、すごく感動した絵画に大きな音を感じているみたいなので、もしかしたら、彼には聞こえても、私には無音かもしれないけど。私の大好きな曼荼羅を持っていって、どんな音が聴こえるのか、彼に聞いてみたい。

感覚的マイノリティ、なのだと思う。社会が無意識的に求める「普通」の枠内に、私の感覚は当てはまらない。

だから、私はこの感覚をなかなか表現できなかったんだと思う。

性被害と同じだ。

性被害を20年間だれにもカミングアウトできなかった。

だって、客観的証拠がないから。

当時、メールや通話履歴は全て削除するように監視されていた。当時の日記も、相手との写真も、渡されたものも、なにもかも、私は全て捨ててしまった。

過去を想起させるものを一切合切捨てないと、その後の人生を生き抜くことが難しかったからだ。

この、感覚的マイノリティも、似たところがある。

頭の中の音は、数値化できない。確かに頭の中で鳴り響いていることを科学的データとして証拠とできるような、だれがどう見ても確かにそうですね、と言えるような、客観的事実が出せない。

私にとっての事実しか、この感覚の存在を伝える術がない。

性被害のことも、カミングアウトするまで、だれにも信じてもらえない、と思いこんでいた。

でも、信じてもらえた。客観的証拠はなにもないけど、私の過去の経験を信じてくれ、今も続くフラッシュバックの辛さが現実のものだと理解してくれ、寄り添ってくれた人がいたから、今私はこうして、自分自身を知ろうとするところまで回復できている。

よし。この感覚が、科学的な意味での共感覚なのかどうかはまだ確信には至らないけど、私は勇気をもって、この感覚を、公表していこう。

【参考URL】

https://storage.googleapis.com/natureasia-assets/ja-jp/ndigest/pdf/v5/n10/ndigest.2008.081008.pdf






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