過去の時空への旅

自分の過去の記憶の辿り方について夫に話してみた。

「認知心理学やなんかで言われてるようだけど、記憶方法が一人一人同じだって前提をまず疑うべきでは?君の記憶方法は、たぶん、これに近い」と、サイバーパンクのブレインダンスの動画を教えてくれた。

https://m.youtube.com/watch?v=NNPiX7VY4sw

サイバーパンクのブレインダンス、というらしい。

まだ全部見れてないけど、

いやまさにそれ!!

としかいいようがない!

混沌に秩序が与えられた爽快感、というか、もやっとした概念に言語的説明が加えられて、スッキリした!

過去の時空の追体験。

まさに、それ。

そのとき意識してなかったものも、とりあえずは空間としてバチっと記憶の中に取り入れられていて、私はあとからその時空に戻ることができる。

一時停止もできるし、早送りや巻き戻しもできる、ゆっくり再生したり、ある場面の動画の最初まで戻ってリプレイできる。

そのときは意識してなかったものに今は意識を振り分けて、もう一度細部に目を凝らして見直すことができる。そのときの会話をが再生できる、動画の一場面をひとまずは一時停止して、人物は置いておいたまま、その人物を通り過ぎて、今の私はその空間内を、あっちに行ったりこっちに行ったり、動き回れる。

この記憶の中の空間には、時間の流れが、なんというか、ない。

私にとって、この空間(記憶)が、3日前の出来事なのか20年前の出来事なのか、時間的距離感が、あんまり感じられない。

同じくらい、単に、鮮明、な気がする。

というか、過去の記憶を想起して、頭の中に広がる3Dの空間を探索しているときは、「いま」という感じがする。この鮮明な動画的空間が、実際には20年間以上も前のことだ、と気がついてやっと、いまの自分と過去の記憶、その空間に、時間的距離があることが認識できるような感じ。

そこには、「時間」という隔たりが、存在していない。

記憶の中に入り込んでいくと、20年以上前に自分が着ていた服やその服の感触、自分の髪型、靴や持ち物、その日の天気や暑さ寒さ、他人と交わした会話やそのとき感じた自分の感情の変化、が鮮明すぎるほど鮮明に思い出せる。

一方で、「昨日食べた夕飯は?」と聞かれても、すぐに答えられない。

24時間前のことなのに、遠い昔のことのように感じる。ボワっとしてて、そんなにすぐに思い出せないよ、、と思う。

私にとって、過ぎていく出来事が、いまこの瞬間流れていって過去の記憶になった時点で、ボワっとしていくような気がする。

あまりに鮮明にその場面を記憶してしまうから、本格的に想起するまでは、あえてぼやけさせているのかな、、、?

そう言われてみれば、たとえば、精神分析的心理療法のセッションが始まるときには、頭の中で「カチ」と、ビデオのスタートボタンを押している。意識的に、この場面をきちんと録画しておこう、という感じだ。

大学院でインタビューをするときもそうだった。

「カチ」でビデオ撮影がスタートして、「カチ」で撮影を終了する。

だから、今も、13年前くらいにインタビューに行ったときに、私が何と尋ねて、相手が何て答えたか、会話を書き出すことができる。

単に、頭の中の動画を再生して、文字に落とすだけだ。

ただし、ある場面を想起が完了するのにはかなり時間がかかるし、疲れる。

これは、私の記憶の仕方や、想起の方法の特異性なのかな?

「時間」というものが、過去から現在、現在から未来へと、一直線上に、一方通行に流れている。もはやその前提が、本当に正しいものなのかどうか、私は、感覚的な疑問を抱がざるを得ない。

話がずれてしまった。

とにかく、私の記憶の一場面には、自分の姿がある場面もある。

自分が着ていた服や髪型、つけてたネックレスや持ってたかばんなんかの、外から見える自分を、自分の感情はまずはさておき、ぐるりと、観察することができる。

感情は、あとからついてくる。

まず先に、単なる、イメージがある。

360度カメラみたいだ。

今までずっと、気がつけば「不思議チャン」の位置付けだった。

その理由が、この自分の記憶方法への理解が進んで、やっと分かった。

私の頭の中では、記憶や思考が音の速さで進んでるみたいだ。

自分の中では、一見無秩序に見えるイメージの連続が、いずれ大きなうねりとなって、何らかの「意味」を持つ文脈につながっていくってことだけは、分かる、ただ分かる。

頭の中でパッパッと、鮮明なイメージが切り替わり、概念として言語に表現するほうが、遅い。

自分でも追いつかない。

自分でも追いつかないし、なんでこのイメージが頭に浮かぶのか、すぐには理解ができない。(時にはあるとき強烈に湧き上がったイメージが何につながっていくのか腑に落ちるまで、何ヶ月もかかることもある)

理解したいから、言語で表現して、音とイメージに追いつこうとして、早口になる。

すると、周りの人には、私が言ってることが、理解できない。

そりゃそうだ、私だって、頭の中に浮かぶ音やイメージが、どういう文脈や意味につながっていくか理解ができてない段階で、それを理解したくて言語に置き換えて発言してるんだもの。

しかし、結果として、人には私が不思議チャンに映る。

「早口すぎて聴き取れない」

「頭の回転が早いんだと思う、面白いけど、何を言ってるのか、理解ができない」

「不思議なこと思いつくんだね、閃き、のある人ってことなんだろうけど、私には、わからない」

何度言われたことか。

そのたびに、人との間に隔たりを感じて、刺さるほどの孤独感に苛まされた。

しまった、と思った。

この人にはわかってもらえるかと早合点して、つい調子に乗って話し過ぎてしまった、勘違いだった、また「変な子」として、人は私との間に線を引いて、ザザッと離れていってしまう。

私は、また、孤独になる。

そんなの嫌だ。

私は人生のかなり早い段階で、(年齢にして7歳くらいだ)自分の感性のまま、語るのを諦めた。

人と話すときは、不思議チャンとして扱われないように、ふつう、にみえるようにふるまってきた。

人からみた私、がどんなふうにみえるか、どんな立ち振る舞いが相手にどんな心象を与えるか、について、あまりに過敏だった。トラウマ体験で、私は嫌というほど、他者からみた自分、を演じるやり方を、悲しくも、生き抜いていくために、自分に身につけさせ続けてしまった。

人と話してるときは、私自身の考えを自分の言語じゃなくて、周りの言語を使って翻訳や通訳をしてる感じで、やたら説明的になった。(たぶん今もだ、でもこの文章の持つ音色もまた大好きだ)

単に、音に頼った記憶方法や思考様式が、他人のそれとは違っていることを、自分自身が理解できてなかっただけなのかも!

よかった、、、とりあえず、私の頭がおかしいわけじゃなさそうだ。

それに、だから私は一日10時間の睡眠が必要なんだ!と合点がいった。

ある意味、脳が疲れないわけが、ない!

単に生活して、新しい出来事を記憶していくだけで、莫大な情報が頭の中に蓄積されていくんだとすれば、脳が疲れて睡眠を必要としない方がおかかしい。

しかし、私の夢はたぶん、いわゆる、明晰夢で、かなり色鮮やかな世界だ。

(というか、こういう夢の見方に、明晰夢、という名前がついていて、そうじゃない夢の見方があることを知ったのも、つい最近のことだ)

空間的な広がりがある。

映画のインセンプションと似てる。

夢の中でも私は、記憶を探索するように、ある空間を歩き回って探索していることがある。(ただし、いつも、ではない、ただ、夢の映像を鑑賞する方が多い)

だから、寝ているときも、夢の中で活動している感じもする。

かなり疲れてるときには、夢中夢をみる。

夢の中で起き上がっても起き上がっても、実際に起き上がってなかったことに気づいて、絶望する。

この類の夢は、ほんとにこわいから、あまり見たくない。

ともかく、夫に自分の過去の記憶の思い出し方について話したことで、記憶の仕方や想起のありかたは、一人一人違うようだ、というひとつの小結論が出せた。

私は、百葉箱と同じ音がする夫、と結婚してほんとによかった!

彼は絶対否定から入らない。

説明から現象をみない。

現象を観察して、説明を試みる。

自由なひと、なのだ。

私は、彼の自由さに、いつも救われる。

彼は私のことも、いつも自由にしてくれる。

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自伝的記憶、超記憶症候群、映像思考、

Hyperthymesia 完全記憶能力

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Hyperthymesia




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