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柳井の金魚と約束

 「また来ます」
 旅先で優しいもてなしを受けるとつい、こんな言葉が口に出てしまう。
相手は一介の観光客が発した些細な口約束が守られるかなど、深くは考えていないだろうし、日々訪れる観光客を次々と捌いていることを考えると、特に特徴もない私の言葉は尚更。それでも、私の財布の中にはあの日残した約束と共に半紙に包まれた硬貨が一枚入っている。

 山口県は柳井市。白壁の町並みと金魚ちょうちんが有名な、瀬戸内に面した小さな街である。夏にはこの地の民芸品である金魚の形をした可愛らしいちょうちんが街中を埋め尽くし、金魚の形をした「金魚ねぶた」が祭りの会場を練り歩くらしい。
 恥ずかしながら私は、その地に降り立つまでそんな事すら知らなかった。
鈍行列車で広島を経ち、瀬戸内海に沿って伸びる山陽本線をひたすら西に。
思い立ったように気になった駅で下車し駅前をぶらりと散策する、そんな旅を続けていた。時間が経つのは思ったよりも早く車窓がオレンジ色に染まる頃、夕日に染まる瀬戸内の海原に負けず劣らず眩い黄色の電車は長い柳井駅のホームに着いた。

 昔から駅のホームにはその地の観光名所を記した看板が備え付けられている。駅から徒歩で辿り着けるような場所から、車で一時間以上掛かるところまであるので参考にならないこともしばしばだが、今回は徒歩後分に国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定された白壁の町並みがあるらしい。夕日が沈むのが先か、次の電車が来るのが先か。そんなことを考えながら改札のおじさんにきっぷを見せて駅から出る。街のシンボルといった感じの無骨な駅舎が夕日に照らされている。「やない駅」と平仮名で書かれた駅名標が妙にかわいらしい。
 住宅や銀行などの店舗が立ち並ぶ駅前から少し歩き、小さな川を渡ると白壁の町並みの本領発揮といったところか。徐々にオレンジに染まりゆく青空、白壁、漆黒の屋根瓦、年季を感じる木目。これこれと頷きながら眼福な風景をカメラに収めながら歩く。細い路地を抜けて、一本奥に入るとここがメインストリートらしい。一本道の両側にタイムスリップしたような家が連なる。そして多くの軒先に、あの金魚ちょうちんが飾られていた。幕末のころこの地で商売を営む境屋 熊谷林三郎氏が有名な青森県弘前市の金魚ねぷたをアイデア元に柳井の伝統的綿織物、柳井縞の染料や竹ひご、 和紙などを用いて作り上げたらしいこの金魚ちょうちん。ぱっちり開いた2つの黒目とぽっかり開いた小さな丸い口、この絶妙なバランスがどうも憎めない可愛さを持っている。そして風に揺れる紅白の姿は遠くから見ても目立つ。そんな金魚ちょうちんを様々な角度から眺め、路地を覗いたりしているうちに、通りの端まで辿り着いた。

 道路を挟んで反対側に建つのは、モダンな建物。どうやらかつての周防銀行らしく、現在は市の町並み資料館として用いられている。ここからもう少し歩いたところには、国木田独歩の旧宅があるらしくそちらにも訪れたいところだが、土地勘も無いのでまずはここをと、重い木製のドアを開いた。
 柳井に生まれ、音楽界で活躍した松島詩子(と言われてもあまり知らないので書かれた説明を流し読みするだけだったが)に関する展示や市の歴史・名所に関する展示を見ていると係員の女性に声を掛けられた。この地に何気なく訪れたことをとりとめもない会話の中で伝えると、よく来てくれたと温かい言葉を掛けてくれる。気を良くして要らないことまで話しているうちにあっという間に時は過ぎ、時計を見ると次の電車まであまり時間が残されていないことに気付く。
 館の閉館時間も近付いていたので、出立の旨を伝えると「お鐘金魚」のことを紹介された。筒型の鐘の上に金魚が赤い座布団に座っており、頭の上から硬貨を入れることで鐘の音色が響くものらしい。そして、この音色を聞いて金魚を頭を撫でると幸運が訪れるとか。少し行き詰まったことがあり、現実逃避も兼ねて今回の旅に出ていた私は迷わず100円硬貨を財布から取り出し、鐘の中に入れる。
「コーン」と心地の良い音色と共に硬貨が戻ってくる。これを包んで財布の中にお守りとして入れておくといいですよと言われるので、それに従い「柳井のお鐘金魚」の印が押された包み紙で硬貨を包み、財布に戻す。
「今度また来た時に、お守りの効果を報告してくださいね」と彼女は冗談交じりの笑顔で言う。
「はい、絶対また来ます!」私はそう言って頭を下げ、その場を小走りで去った。日はまもなく沈むようで、辺りは徐々に暗くなり始めていた。

 そして、現在に至る。あれから数年が経ったが、なかなか機会が無く報告どころか柳井にすら足を運べていない。迷った末に選んだ道に進み日々大事もなく過ごすことが出来ているのも、あの金魚のお守りのお陰なのかもしれない。この約束を果たしたら何か一つのものが終わってしまうような思いもあるが、次の春にでもまたあの街を訪れてみようか。そんなことを考え取り出したお守りを再度財布のポケットに戻した。

(2023/12/09 一部改稿しました)


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