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生きるが習慣になっている
私の人生に生きる理由って基本的に無いんだけどその代わりに死を選ぶほどの理由も勇気もないからダラダラと人生を続けているなと思う。
先日友人が、死後の世界が無だと考えるとそれは怖くてたまらないという旨の話をしていた。
それに対し私は、終わった命に意識は無く、その無の世界を経験することもないので死は怖くないハズだが、怖かったり痛かったり苦しい死に方は恐ろしいと思った。
死に方への恐怖が、死ぬ理由に勝てないから私は自殺したりしないんだろうな。
一方で、生きる理由というのも考えてみる。
正直使命感もなければ、強い衝動もないので”私の哲学”としての生きる理由はないように思う。
今の環境なら強い意志がなくともルーティン的に生きることを続けることが可能だ。
生きることが当たり前になっていて習慣だから深いこと考えずに生きていける。幸せなことだ。
もっと分解して今後の人生の楽しみもあげてみる。ざっと思いつくのは、来月のプチ旅行と再来月の音楽パーティーだ。
人生100年時代のまだまだ前半戦なのに、楽しみとして上げられるのが直近のものだけすぎる。
昔から計画通りにいかない計画を立てるのが嫌いだ。ライフプランなんてそううまく行くハズもないのでそもそも真剣に考えていない。
だから直近の超具体的な楽しみだけをアテに生きている気がする。
ほんの数ヶ月先の楽しみを作り続けていくことで延命するように生きている感覚。
書いていてなんとなくしっくりきたな。
この価値観が配偶者や子供ができて自分が妻になり母になれば変わるのだろうか。
結婚や出産というイベントの本質は相手の人生に責任を持つことだと考えている。
そういったイベントを経験することで、人のためになら生きる理由を見つけることができるだろうか。
でも結局他人の幸せを願ったところで、なぜそれを願うのか考えたら自分が嬉しく感じるからとか精神的な喜びを得るためで、やっぱりそれはエゴなんじゃないかと考えたり。
どんな利他的なことでも突き詰めれば利己的な理由に集約されてしまう気がするのは私がテイカー気質だからだろうか。
あえて死にたいとは思わないが生きたいとも強くは思っていない。
こんな斜に構えた内容を書いているけど、死に直面したら強く生きたいと思って小恥ずかしい気持ちになったりして。それはなんか嫌だな。
誕生日だけどちょっとセンチメンタルな夜。
センチメンタルな吐露note。
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