染、色──秋に咲いちゃった桜って
「染、色」公演中から度々見かけた考察の文字を改めてTwitterで検索すると「秋に咲く桜」について掘り下げているものがヒットする。便乗するわけではないが、私なりの桜の解釈を述べていきたい。
作中、深馬がしきりに気にかけていた「秋に咲く桜」は彼にとってどのような存在だったのだろうか。
その桜は冒頭、滝川の部屋での北見との会話で最初に登場する。北見が実家で見たという「10月に咲いちゃったソメイヨシノは次の春も咲いたのか」と尋ねるシーンだ。桜だってパカスカ咲ける訳ねぇだろ、の一言で深馬はなんとなく納得する。
深馬はその後、滝川や原田の前で再度その桜の話をするのだが2人はばつが悪そうに顔を見合わせてほんのりと誤魔化すのだった。
深馬が参考にした詩には桜の表現はなかったし、(微かな記憶のみで書いております。) 皆で花見をするようなシーンはない。もとい春がはっきり表現されているのは卒業式の後の飲み会のシーンのみであった。
口にする春は、ない。
ただ、桜が舞うシーンはあった。
深馬が真未を切り離し、杏奈に電話を掛ける最後のシーン。それまでずっと上下黒を貫いた真未が白いワンピースを着て静かにステージ上に現れ、彼女のもとに桜の花びらが舞うのである。
ここまで桜、桜と書いていると無意識に脳内でNEWSの「さくらガール」が流れるがここではそのような恋を際立たせる桜や、Hey! Say! JUMP「桜、咲いたよ」のような卒業を表す桜ではなく、都市伝説で語られる桜が絡んでいるのだと考える。
屍が埋まっている──梶井基次郎が『桜の樹の下には』で唱えたそのままの意味である。
梶井基次郎『桜の樹の下には』https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html
そして白色もまた、「死」を表現するものである。刑事ドラマや実体験で何度か見たことがある人もいるだろう。亡くなった人が最期に着る服の色である。
「死」を表す桜、「亡き人」を表す白い服。深馬が真未を切り離したとき、真未は最期を迎えたのである。
深馬は6人の登場人物の中で「死」を人一倍に考えただろう。父親の脳卒中、自分の中途半端な状態を死ねていないと指摘されたこと。そして自分の死体は見れないのだと嘆いた深馬は印象的だった。
では、桜を「死」としたとき、「秋に咲いちゃった桜は春に咲くのか」に当てはめて考え直すと深馬の疑問は【死んじゃった人は生き返るのか】ということになる。
死んだ人は生き返るのか
大学生の深馬ならわかるだろう。普通の人間は生き返りはしない。
ただ、彼の真未人格が現れるとき(別noteでまた書きます)を彼が理解しているとすれば、【真未を切り離したらもう戻せないのか】 となるのだ。
作品が評価されていた頃の深馬の原動力にあった「怒り」は先生の部屋や真未の部屋、居酒屋での喧嘩っ早さに通ずるものがあるが、
怒りの先にある真未の“人格”を彼が嫌いなのだとすれば捨ててしまいたいと感じていても不思議ではない。温厚で余分な干渉を好まない深馬とは違いすぎるのだから。
深馬、秋に咲いたソメイヨシノは次の春に咲けないらしいよ。
少しだけ触れた滝川と原田の反応や真未人格についてはまた再度考えたい。