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2023 空も飛べるはず なぜなにの子供

スピッツの楽曲にSSを書く 1 空も飛べるはず

なぜなにの子供

 その声は藍のグラデーションで響く。やわらかく深く、水のようにどこまでも青い。
「なんで『空も飛べるはず』なの? なんで『はず』? 空って飛べるじゃん」
 娘は前の世界の歌を聴いて、ふしぎそうに私に首を傾ける。娘はこの世界で生まれた。空気が薄くて空を飛べなかったころの記憶が始めから存在しない。
「前はね、空を飛ぶためには金属の羽が必要だったんだよ」
「あんな重いもので? ありえない」
 娘は椅子に両手をついて足をパタパタさせている。黒く焼けた膝の丸さと、裸足の足。土を踏むのが大好きな娘の、棒きれのような足だ。
「君と出会った奇跡になんで驚くの? なんで奇跡? 会った瞬間にわかるじゃん、そんなの」
「前の世界はね、人の心が隠されていてわからなかったの」
「お母さんも、お父さんのことわからなかった?」
「最初はわからなかった。お父さんは、初めから知っていたみたいだけど」
「わからないってなに?」
 前の世界の話になると、娘は眉間に皺をよせて、ありえないという顔をする。
「心が身体に隠れていて、空気から切り離されているの。だから形にしないと、思いが伝わらないの」
「じゃ、ずっと目隠しで、他人が何を考えてるかわからないってこと?」
「そうだね」
「そういうゲームなの?」
「そうかもしれないね」
「だから戦争とかしちゃうんだ」
 この世界では誰の心も水のなかで繋がっていて、誰もが互いを思いやっている。瞬時に心が繋がってしまうので、この世界には悪い人がいない。
「前の世界では、お父さんとは心が離れていたの。川の両岸みたいに、底で繋がってはいたけれど離れてた。だからずっと不安だったな。お父さんの心が知りたくてね」
「ありえん」
「それがふつうだったんだよ。今はわかりすぎて、ときどきお父さんから離れたくなる」
「それはわかる。お母さん、ときどき頭のなかに引きこもってるもんね」
 娘は人の悪い笑みを浮かべて私を見上げていて、私は理解されすぎるのも嫌だなと思う。娘たちは生まれたときから人と繋がっているので、自分の頭のなかに避難所をつくる必要もないのだ。
「お父さんが運命の人だって、最初はわからなかったんだ」
「わからなかった」
「じゃ、最初はどう思ってたの?」
 鳥の残像のように、記憶が私の視界をかすめて去っていく。遠い日、午前中の白い陽光のなかで、シャツに光を孕ませて立っている背中の記憶。
「たたずまいがきれいな人だった」
 娘も心のなかで、あの日と同じ背中を見ている。
「この人はひとりでなんでもできるし、どこにでも行けるけれども、誰かがこの人のそばにいて、心を支えてくれたらいいなってずっと思ってた」
 あのときの私は、それが自分になるとはまったく気づいていなかった。触れることのできない、遠いもののように感じて、どこか気後れした思いであの人を見ていた。
「奇跡にするために、わからないことにしていたの?」
 娘は鼻の頭にしわを寄せて、私を不審げに見上げている。変なの。娘の声が頭のなかに響く。
「ふたたび見つけるために、忘れたことにしていたの?」
「そうかも」
「めんどくさい」
 娘は両膝にひじをついて、おおげさに溜めた息を吐き出した。
「わけわからん」
 私が苦笑すると、娘は咎めるように私の口元を指さした。
「笑いたくないのに笑わないで。悪い癖だよ」
 娘は心と一致しない行動が嫌いだ。いつも見抜いて、私を小うるさい教師のように叱っている。
「お母さんの生まれたころって、めんどくさかったんだね」
「そうだね」
 口元に自然な笑みが浮かぶ。
 あのころは、わからないことに悩みながら、わかるのかけらを探し続けていた。心の岸辺に打ち寄せる漂着物を拾い集めて、星のようにつなげて自分の星座をつくっていた。
 今はもう、あのよるべない感じを心に乗せることはない。が、ときどき頭のなかに引きこもって、さびしいとはなんだろうかと、心の軌跡をトレースすることがある。
「孤独を感じるために、あそこにいたんだと思う」
「孤独ってどうだった?」
「冷たかった」
「孤独じゃないって、温かいこと?」
「そうだと思う」
 娘は私の顔をじっと覗き込んで、和んだような笑みを浮かべた。
「お茶にするハーブを摘んでくるね」
 娘ははずみをつけて椅子から立ち上がると、裸足で部屋を出て行った。お湯に溶ける、金色と緑の透過光が目の裏をかすめる。
 娘は私の孤独に共鳴したのだろう。なんでも吸い込んでしまう娘に、私はいつまでもかなわないなと思う。
 娘はこの世界を冒険するために生まれてきた勇者だ。赤ん坊のころは、私たちを全身で温めてくれる、美しい愛情のかたまりだった。
 この世界であの人と娘を育てる未来を、あのときの私は忘れていた。
 奇跡にするために忘れていたのかもしれない。
 ワルツを踊るように爪先を投げ出して、私は床に大きな円を描いた。
 らせんを描く星の軌道を、私は今辿り直しているのだ。
 

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