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72/100 夏休みの国の子供4

文字書きさんに100のお題 062:オレンジ色の猫

夏休みの国の子供 4

 護福寺のナマコ壁の坂を上ると、ぼくは境内へ入った。黒々としたソテツと藤棚がある護福寺の境内には、遠い波のようにしゃぎりの音が響いている。
 ぼくはお寺の縁側に座っていたふたりを見つけて、近づこうとした。
「……弟にだけは、知られたくないんです」
 兄の声が、ぼくの足を止める。
「いままで、弟だけは、ぼくのことを普通に扱ってくれました」
 ぼくはあわててソテツの陰に身を隠した。
「弟までぼくを否定するようになったら、ぼくは生きていけないです」
「そうかもしれないな」
 男の声は優しかった。
「どうしてあなたは、ぼくの話を聞いてくれるんですか?」
「聞くだけなら誰でもできるよ」
「でもあなたは、ぼくの話を否定しない」
「お前の親友みたいにか」
 ふたりの声は静かだった。よく耳を澄ましていないと、ふたりの声が聞き取れない。
「ぼくはあなたといると心臓がおかしくなります」
 兄の声は仄かな熱を帯びている。これはほんとうにぼくが聞いていい話なのだろうか。
「胸がドキドキします。でも、あなたの鼓動はそのままなんですね」
「まだ心臓の音がふたつ聞こえるのか?」
「聞こえます……ふたつとも鼓動が静かだ」
 兄は聞こえるはずのない音にじっと耳を傾けていた。
「これはぼくの心臓の音じゃない」
 男は軽い笑い声をあげて、兄のほうへ向き直った。
「かなわないな。きっとお前は千里眼なんだよ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。お前の秘密を教えてくれたから、俺の秘密もひとつ教えてやるよ」
 男は笑みを含んだ声で、低く囁いた。
「俺も、親友が好きなんだよ。だから、お前が聞いたのはきっと、俺のなかの心臓の音だよ」
 兄が打ち明けた秘密とは、親友が好きだということだろうか。たぶんそうだろう。そして、男も兄と同じように、自分の親友を好きになって苦しんでいる。
「それであなたは、人の輪に入ろうとしないんですか」
「大学のサークルでいっしょになった奴なんだよ。できれば俺も、親友なんか好きになりたくはない。そう思って、サークルにも行かなくなって、大学が休みに入ったら逃げるように実家へ帰ってきたんだ」
 秦野港で毎日釣りをしていた男の孤独を、兄は見抜いたのだろう。「彼は肋骨のなかでふたつの鼓動を飼っている」、数学のノートへ兄が書き残した言葉を思い出す。
「たぶん、俺がお前たちと会ったのは偶然じゃないんだよ。ほら」
 男は庭園の一角を指さした。
「さっきからあそこに赤茶のシマ猫の兄弟がいる。あいつらに似ていなかったら、俺はお前たちに興味を持たなかったよ」
「え……」
 兄の戸惑いが、ぼくにも伝わってきた。男が指さしたところに、猫はいない。猫ほどの大きさの岩がふたつ、並んで立っているだけだ。
「あ、逃げた。どこでエサをもらってるんだか知らないけど、お前らが元気でよかったよ」
 男は縁側に手をついて身体を反らすと、ははっと声をあげて笑った。
「あなたにはもう、好きな人がいるんですね」
「見込みはないけどな」
「好きだという前に、振られてしまった」
 兄はたぶん痛みをこらえるような顔で苦笑した。ここからでは暗くて兄の表情が窺えないが、ぼくにはその苦笑が見える。
「お前はもっと人と付き合えよ。親友や、弟だけじゃなくて」
「ぼくの友達になってくれる人がいるでしょうか」
「いまは俺がいるじゃないか。世界は広いんだ。お前のその変な能力を受け入れてくれる人がきっといるよ」
 男は兄のことを考えて真実を言ってくれている。それなのにぼくの心をちくりと棘が刺した。とても小さいのに、じくじくと痛む棘。
「俺も大学へ戻ったら、そいつに振られてくるよ。けじめをつけないと、次へ進めないからな」
 男は兄へ覆い被さるようにして、兄を抱きしめた。
「す、好きな人がいるんでしょう?」
「だからちゃんと失恋してくるよ」
 兄は男の腕のなかで弱々しく抵抗していた。男がそれを封じ込める。
「身体が熱いのに震えてる。面白え」
「ひ、ひとの反応で、面白がらないでください」
 ぼくは兄がこれ以上暴れたら助けに行こうと思っていた。が、兄は男の腕のなかで大人しくなる。
「こ、こういうことは、ぼくは、は……初めてなんです」
「安心しろ、俺だって初めてだ」
 ふたりのシルエットが変化した。兄が猫のように背中を丸めて男の肩にしがみつく。ぼくの喉が鳴って、ぼくはその音があたりに響かないかとビクビクする。
「俺に言いたいことがあるだろう?」
「……あ、……」
「あ?」
「あなたが、好き……です」
「よく言えました」
 男は兄の顎に手をかけると、兄の唇にキスをした。
「わたあめよりもやわらかいか?」
「やわらかいです」
 互いの声が掠れている。
「気持ちいい感触だな」
 男は兄へふたたび唇を重ねた。幾度となく重なるふたつの影に、ぼくの心臓が高鳴る。
 影が離れた。兄は男に甘くふやけた声で呟いた。
「男同士って、どうやって付き合うんですか?」
「お前、それを知らずに親友のことが好きだったのか?」
「そばにいてくれるだけでよかったので……」
 男は兄の身体から腕を放すと、兄の頭を乱暴に撫でつけた。
「夏休みの宿題だ。次に俺に会うまでに調べとけ」
 男と兄は互いの肩に手をかけると、どちらからともなく笑い出した。心に刺さった棘が、チクチクとぼくをつつく。
 兄は、自分を夏休みの国から解放してくれる存在にやっと巡り会えたのだ。
 目に見えない猫と耳では聞こえない心音に導かれて。
 ぼくでは駄目だった。ぼくは兄を夏休みの国から連れ出すことができなかった。
 ぼくは自分が兄を好きだとようやく気づいた。
 しかし、ぼくは恋心を自覚する前に、兄を永久に失ってしまったのだ。

 兄はその日のうちに夏休みの宿題をインターネットで調べたようで、PCの前でしばらく落ち込んでいた。
 それから兄は男と連絡を取り合うようになった。しょっちゅう鳴り響く兄の着信音にぼくはイライラした。
 ある日、兄は麦わら帽子を取り出すと、散歩に行くといって家を出ようとした。
「ぼくもついていこうか?」
「え、いい」
「あの人とデート?」
 兄ははにかむように笑ってうん、とうなずくと、頬をほんのりと赤く染めた。ぼくは安堵と落胆の入り交じった気持ちで手を挙げる。
 兄にはもう、ぼくのガードは必要ない。
「いってきます」
 兄はぼくに手を振ると、刺すような日差しの降る青空のもとへ出ていった。

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