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72/100 夏休みの国の子供2

文字書きさんに100のお題 062:オレンジ色の猫

夏休みの国の子供 2

 夏風邪が治った兄と秦野港へ行った。今日はアジをもらうためのバケツを持参した。
 男は今日も釣りに来ていた。黒い岩に座って、釣り糸を垂らしながら綿雲を眺めている。
「風邪はよくなったか?」
 男はぼくたちに気づくと、薄い唇を伸ばして笑った。兄がぼくの後ろに一歩身を引く。
「この人は大丈夫だよ。話を聞いてくれる人だ」
「お前は俺に用があるんだろう? 弟じゃなくて、お前が話をしろよ」
 兄は確認するようにぼくを見上げた。ぼくがうなずくと、兄は男へ向き直る。
「あなたといると、心臓の音がふたつ聞こえるんです」
「ふたつ?」
「たぶん、あなたと、ぼくの。あなたの心臓の音がどうして聞こえるのか、わかりません」
「お前の周りには変なことがたくさんあるんだろう?」
「なぜわかるんですか」
「弟が言ってた。霊感みたいなものがあって、変なんだって」
 竿が引いた。男が釣り竿を上げると、糸の先にナイフのような銀色の魚がついている。男はマアジを針から外すと、クーラーボックスのなかへ放り込んだ。
「俺といれば、原因がわかるんじゃないか?」
「あなたはぼくが気持ち悪くないんですか?」
「特に害はないからな」
 男はぼくが手にしたバケツを見ると、アジを分けてやるよと言った。
 男にバケツを渡す。男はクーラーボックスを傾けると、海水ごとアジをバケツへ流し込んだ。
「あと、携帯の電話番号な」
 兄は男と電話番号を交換した。
 男は空の高いところにあるかすんだ雲を見上げていた。
「そろそろ雨が降るな」
「台風が来るそうです」
「じゃ、次に会うのは台風のあとだな」
 男に別れを告げて道路へ出る。兄は海のほうへ目を凝らしている。
「何か見えた?」
「小魚の群れが渦を巻いていた。アジかな? でも」
 兄は視線をアスファルトへ落とすと、しばらく自分の思いに沈んでいた。
「……あのひとは、群れのなかに入ろうとしないんだ」

 アジはチーズといっしょに焼かれて、夕食の食卓に上がった。
 夕食のあいだずっと、兄は何かを考え込んでいた。
 兄も群れに入れない人間だから、余計にはぐれたアジが気になるのだろう。
 男は兄の親友以外に兄が興味を示した初めての人間だった。ようやくぼくも兄と同じものを気にすることができた。

 台風が去るまで、ぼくたちは釣り人に会えなかった。
 台風は大雨と突風を引き連れてやってくると、小枝や木の葉を道路へ散乱させて消えていった。家の前の道路を片付けるのに、ぼくたちは二時間を費やした。
 片付けが終わったとき、兄のスマートフォンが鳴った。釣り人からの電話だった。
 男は、六碧湖の道路が冠水したから見に行こうと言った。いまから車で迎えに行く、と。
 ぼくたちはよそゆきのTシャツに着替えると麦わら帽子を用意した。
 男は十五分ほどで家の前に着いた。男がお揃いの麦わら帽子を見て唇の端を吊り上げる。
「田舎の子供だなあ」
 ぼくたちは車に乗ると、六碧湖へ向けて出発した。
「お前たちにアジをあげてから、野良猫の兄弟が家に来なくなったんだよ。餌場を変えたのかなあ」
「野良猫って、何ですか」
 珍しく兄が自分から口を利いている。
「家に来ていた赤茶のシマ猫の兄弟だよ。お前たちによく似てるんだ」
 男は車の窓を全開にして幹線道路を走っていく。雲ひとつないシルクスクリーンの空に、太陽がフラッシュのような光を放っている。
 車はケヤキ並木の坂を下ると、六碧湖の周遊道路へ入った。道はカーブしながら、湖へと続いていく。
 男がマンションの跡地の駐車場へ車を入れた。道路が冠水しているので、ここからは歩きだという。
 男は車から釣りの道具を出すと、ぼくたちの先に立って歩き出した。
 桜並木のあいだから、六碧湖の全景が覗いた。成層圏まで突き抜けそうな青色の空に、台風が来ていっそう濃くなった緑の木々、湖に点在しているスワンボートが見える。
 道路を赤色の三角コーンとチェーンが塞いでいた。男はその脇をすりぬけて、湖のほうへ歩いていく。
 六碧湖はひょうたんのような形をしていて、ひょうたんのくびれに道路が通っている。いまは道路がカフェオレ色の水に浸かって、ふたつの湖がひとつに繋がっていた。ガードレールが五十センチほど水面から露出して湖の向こう側まで続いている。
「ガードレールで釣りをしようぜ」
 男は靴を履いたまま水の張った道路の上を歩いていく。ぼくたちはしばらくためらってから、ズボンを濡らして男のあとをついていった。
 ガードレールに並んで座って、ぼくたちは湖に釣り糸を垂らした。肌を刺す日差しが強く、ミンミンゼミの声が聞こえる。遊歩道に落ちる木の陰が黒々としていて、光を反射するカフェオレ色の湖面がざわめいている。
「ふだんと違う景色で、面白いだろ」
 男はガードレールの上に立ち上がった。釣り竿でバランスを取りながら、ガードレールの上を渡っていく。
「水の上を歩いているような気にならねえ?」
 兄は男の姿を目で追うと、遠くを見る目つきで湖面を眺めた。
「魚がザワザワしています」
 男が戻ってくると、ふたたび湖へ釣り糸を垂らす。
「行けるはずのないところへ行けるって、ザワザワしています」
 男の釣り竿に、引きがあった。男がリールを巻き上げる。やがて湖面を水切りするように三回跳ねて、二十センチほどのフナが上がってきた。
 男が釣り針からフナを外すと、湖へフナを落とした。水音とともに、フナが湖に沈んでいく。
「逃がすんですか?」
「こいつは食えないからな」
「でも魚がお礼を言ってました。あなたは優しいんだ」
「そんなことねえよ」
「優しいです。あなたの周りの空気はピカピカしている」
 ぼくは兄に空気がピカピカしているなんて言われたことがない。胸の奥がチリッと焦げる。しかし、男といっしょにいると、兄はいつになくリラックスしているようだった。
 兄がぼく以外の人間へ自分に見えるものの話をするのは、極めて稀だった。
 兄は親友に「頭がおかしい」と言われてから、自分の幻覚を誰にも話さないようにしていた。
 いつか、人魚や半魚人が陸へ上がってくる手すりから、兄を幻想の世界へ連れていってしまう何かが現れるのではないだろうか。ぼくはそれが不安だった。兄が向こう側に引きずり込まれないように、現実で誰かが手を繋いでいなければならない。
 いままではぼくがその役目を担っていたけれども、もしかしたらこの人が兄を現実に繋ぎ止める錨になってくれるかもしれない。
 ぼくは風に吹かれながら釣り糸を垂らす男と兄を見て、そう思った。

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