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2020 聖灰

夏目漱石『こころ』の二次創作です。K×先生+私。
同人誌『こころのとも』参加作品(別名義)。https://booth.pm/ja/items/2427180
本編のその後、私が先生の弔いのために鎌倉の海へ行くお話です。

 先生の墓は、先生の友人であったKの墓所と同じ雑司ヶ谷に建てられていた。先生が生前、友人の傍で眠りたいと墓を用意していたという。
 私は夫の急死で打ちひしがれた先生の奧さんと共に墓地を訪れた。私は先生の遺書のせいで、奧さんや家人へ嘘をつかなければならなかった。
 私は臨終の父を置いて東京へ発ったわけを誰にも話さなかった。奧さんは、私が先生の死去を知らせた奧さんの電報を見て東京へやって来たと誤解した。その電報は、私と入れ違いで実家に届いたという。
 奧さんには、以前から先生が私だけに身体の不調を訴えていたと語った。
 奧さんは先生の真新しい墓地へ白菊を手向けながら、私が先生に似てきたと言った。あんな丈夫な人が突然逝ってしまうなんて信じられない、と。
 秘密を持つ暗い精神を、奧さんは敏感に察したのだろう。妻の心へ一点の染みも落としたくないという先生の遺志を守るために、私は今後奧さんとは会うまいと決めた。

 居心地の悪い帰郷を果たしてほどなく、私は先生から小包を受け取った。小包の消印は先生の遺書と同じ頃であったが、小包はどこかをさ迷った末に私の元へ届いたようだった。
 小包には二寸ほどの桐の箱と、先生の添え書き、Kの遺書が二通入っていた。先生の添え書きには、Kの二通目の遺書のことが書かれていた。二通目の遺書は先生によって隠され、世間には公表されなかった。Kもそれを望んで二通の遺書を先生に託した。
 桐の箱にはKの骨が収められていた。おそらくは背骨の一部であろう。円筒形の真っ白い、カサカサした骨だった。先生は骨をKの墓から盗んだ。そうして懐紙へ包んで文机の抽斗にしまい、ときどき取り出しては眺めていたという。
 先生は最後に、Kの骨を元へ戻してほしいと書いていた。が、先生とKの遺書を読んだ私には、雑司ヶ谷の湿った墓所へその骨を返すのが忍びなかった。

 私は東京へ出る用事を作ってふたたび雑司ヶ谷へ戻ると、先生の墓から骨を盗んだ。
 墓地には空に枝を広げた銀杏の木が立っていた。葉を茂らせた大きな銀杏の木は、じきに訪れる黄葉の気配を宿して私を見下ろしていた。
 墓石をずらして骨壺を開ける。先生の頭骨の一部が蓋のように被さっていた。私はしばらく先生の頭骨を眺めた。晦渋な知識を覆っていた白い頭骨は、Kを失った心の軋みに耐えきれなくなったのだろう。私が先生の頭骨を指で摘まむと、骨の一部が砕けて折れた。頭骨の欠片を桐の箱へ収め、箱を持ち重りのする風呂敷へしまった。

 私は東京駅へ戻り、鎌倉行きの三等列車に乗った。ごった返して空気の悪い三等列車の狭い椅子に、私は風呂敷包みを抱えて座っていた。
 私は先生とKの遺書を携えていた。先生の分厚い遺書と添え書き、そしてKの二通の遺書だ。
 紺と白の青海波の風呂敷から、私はKの二通目の遺書を取り出した。二通目の遺書の封筒には先生の名前と、直披という言葉が書き連ねてあった。
 私はKの遺書を広げた。

「君は、僕のために御嬢さんと結婚しようとしたのだろう。」

 Kの二通目の遺書は、謎めいた文言で始まっていた。走り書きのような、乱れた文字だった。

「君は御嬢さんと結婚することで、僕の道が途絶えるのを防いでくれた。
 御嬢さんへの思いで曇った僕の目をすすいで、僕の足を正しい道へ戻してくれた。
 君は僕の境遇をそこまで考えてくれていたというのに、僕は君の真心を素直に受け取れなかった。

 僕は君と御嬢さんが仲睦まじく暮らしているようすを想像して、胸が苦しくなった。 
 いずれ御嬢さんは君を温かい愛情で包み込んで、君の精神を溶かしてしまうだろう。
 君に子供が生まれたら、君はその子供に心を奪われるに違いない。
 僕は君に何よりも大切なものを与えられる御嬢さんに嫉妬した。
 そして愕然とした。
 自分のなかに、これほど醜い感情が潜んでいようとは。
 君と御嬢さんの幸せを願うのがこんなに苦しいことだとは思いもしなかった。

 君の真心を素直に受け取れないおのれの弱さが憎かった。
 君と御嬢さんの幸せを考えるのであれば、僕はおのれの存在を消し去るのが一番ふさわしいように思える。」

 それは先生に対するKのねじれた愛の告白であった。Kが先生にだけ読まれ、先生に葬り去ってほしいと望んだ秘密の手紙であった。
 遺書の折り目が擦り切れてかすかに破れていた。
 私はKの遺書を封筒へしまうと、先生の添え書きを広げた。先生の添え書きの西洋紙は新しく、端に触れると指が切れそうだった。私は今後、先生がKの遺書を読み返したように、自分も先生の手紙を取り出して読むのだろうかと思った。

「私は自分の恋によって人を死に追い詰めた殺人者でありました。
 Kの遺書が、その動かざる証拠です。
 私はKの予想通り、私が御嬢さんと結婚することでKの精神を守ったつもりでいました。自らの道を邁進するKにとって、御嬢さんはその道を塞ぐ存在です。Kは御嬢さんが私の精神を溶かすことを懸念していましたが、私も御嬢さんがKの精神を堕落させると思い込んでいたのです。
 Kは私に執着し、「御嬢さんに嫉妬した」と遺書に書いていました。私はKを愛しているとKに伝えればよかったのでしょうか。しかし、その先にどんな未来があったというのか。

 私とKは、同じ精神の荒野へ佇む貧しい木であったのです。互いの身体の温もりを知らず、血を交わすこともない、痩せた精神そのままの姿で空へ突き立った木です。私たちはこれだけ傍にいながら、交情を通わせることすら思いつかなかった。Kが私に残したものは、あの日襖に飛び散った血潮と、私宛の二通の遺書だけであったのです。
 私もKも、あくまでもロゴスの虜囚であり、互いの身体を重ねたいという願望を持っていませんでした。
 私はKの骨を持つことで初めてKの内面に触れました。Kの精神を支えるには頼りない、痩せた骨でした。私はKの骨を手のひらに載せて眺めては、Kの見ていた風景を想像しました。それは、枯れ木が土となって朽ちていくような、果てしのない荒野でした。
 Kが私に望んだのは、道への意思を共有する同伴者でした。Kと共にある行為は、ふたつの孤独が独立して空へ突き立つことでした。Kが私に房州の海へ沈めてほしいと言ったとき、私たちは魂が触れ合うほど近い距離にいましたが、そのときKは私に共に歩むことを求めたのではなく、自らの斬首人であることを望んだのです。
 私はKを抱きしめたいという欲望を抑えました。そうして、Kの時間を終わらせる鉄槌を振り下ろしたのです。

 Kは殉教者でした。キリストに殉ずるのではなく、おのれの信じる道に殉じた。
 私は彼の骨を聖遺物のように取り出し、私の心の祭壇に捧げたのです。Kを失った苦しみを思い出し、自らの精神を痛めつけていたのです。

 私は道行く人に鞭打たれたいと望みました。しかし私が一番鞭打たれたいと願ったのはKでした。
 Kを御嬢さんに引き会わせ、Kを迷わせた。私は聖書に出てくる楽園の蛇であったのです。
 Kはアダムではなかった。手に取った林檎をすんでのところで吐き出した。そしてその罪に耐えられず、自らを葬り去ってしまった。清く澄んだあの精神を、惜しげもなく虚空に投げ出してしまったのです。
 私はひとり、Kを惑わせた罪のなかに取り残されました。私はKにどこまでも自分の道を邁進してほしかった。彼には遠く及ばない私を嘲ってほしかった。Kを失ったあとの私の人生は無意味でした。高邁な精神の元に散ってしまいたいと幾度も思いながら、死ぬのが怖いという肉体の恐怖に引きずられて歩いていました。
 私はそんな折にあなたと巡り会ったのです。」

 列車の窓から午後の光にたなびく粉塵の煙が見えた。
 私は、先生に落ちる黒い光に導かれてやってきた火蛾であった。先生は私に、あなたは私の人生を打ち明けられるほど真面目な人間かと問うた。そのときの私は先生の秘密に魅入られていただけで、先生の言葉に値する人間ではなかった。先生は自ら命を絶つ前に、誰かひとりの人間を心から信用して死にたいと願った。先生がすがりつけるのは、幼い私しかいなかった。先生は淋しい人間だった。先生の遺書を託すにふさわしい、成熟したこころの友をひとりも持たなかった。
 先生はKを失った心の穴を生涯埋められなかった。私の目には、その事件は互いを想いながらもすれ違ってしまった、不幸な事故であるように見えた。
 先生が生前私にKの話を打ち明けていたならば、私は先生にそう伝えただろう。私の言葉は、先生の慰めになったかもしれない。が、先生が求めていたのは慰めではなかった。自分に振り下ろされる鉄槌の一撃であった。

 列車が鎌倉駅に到着した。私は駅から十分ほどの距離にある材木座海岸へ向かった。
 材木座海岸はひらけた遠浅の海岸で、由比ヶ浜よりも落ち着いた場所であった。私はいくつもの扇型を描いて打ち寄せる波の縁をしばらく歩いた。
 砂に落ちる自分の影を踏みしめる。
 私は先生の告白に値する人間ではなかった。
 先生は、私が先生の過去を暴こうとしたときに私を初めて尊敬したと言った。が、私は先生の過去に興味を抱いていただけの、愚かな若者だった。先生は腐る寸前の果実のような甘い芳香を漂わせて私を誘っていた。私はその芳香に惑わされて先生に近づいた、小さな虫にすぎなかった。
 『然し君、恋は罪悪ですよ』。
 私は先生の真意を見抜けず、ただ先生の胸に口を開けた深淵に魅入られただけだった。
 先生はときどき私に投げかける謎によって、私を先生の心の奥にある迷路へ誘い込んだ。そうして、迷路の入り口で迷う私を拒むことで、私をさらに迷路の奥へと導いた。抗いながら引き寄せる。そのやりかたはまるで手練の娼婦のようでもあった。

 浜には数人の人影が散っていた。富士山を臨む山の端で淡い黄色に輝いている入り日を、立ち止まって見上げる。
 私は今ようやく、先生の悲しみがわかるようになった。先生の血潮を額に受けて、目を開かれた人間になったのだ。私は先生に追いつけなかった。私が先生の悲しみを身に染みて理解する前に、先生は逝ってしまった。Kに置いていかれた先生と同じように、先生は私を置いていった。先生を助けられなかったという、深い悲しみの淵の底に。
 先生はKの死を呪いと感じていたのだろう。Kを救えなかった悲しみを背負った先生が、なぜ私に同じ呪いをかけていったのか。
 私が先生を救えなかったと悔やむ可能性を、先生は考えていなかったのだろうか。先生には、自分を追いかけてくる死の影しか見えていなかったのだろう。哀れで愚かな先生。房州でKを海へ突き落とそうとした襟首の感触を、生涯忘れることができなかったのだろう。

 私は陽が隠れるまで、風呂敷包みを肩にかけたまま夕日を見ていた。
 人影がなくなり、空に青い夕闇が落ちる頃、私はようやく波の来ない砂浜に膝をついて風呂敷包みを開けた。
 先生とKの遺書を重ねて砂浜に置き、骨を取り出した桐箱をその上に載せた。私は風呂敷から燐寸を出して擦り、紙のなかに燐寸の火を挿し込んだ。紙が明るく燃え上がり、青い闇が垂れ込める周囲を照らした。桐の箱を焼き終えた火は砂浜の上で儚く消えた。

 灰になった遺書を両手ですくい上げて、波打ち際へ歩いていく。
 足下に寄せる波へ手を下ろして、灰を海水に流した。灰は逆巻く水に溶け、引いていく波に乗って海へ帰っていった。
 私は先生を救えなかった。が、教会で告解をする信徒のように、私に自らの罪を告白することで先生は救われていたのだろうか。そうであるよう願った。
 私は風呂敷からふたりの骨を取り出すと、足下の波にそれを置いた。ふたつの骨は波に絡まって転がり、徐々に海へ引き寄せられながら、黒い波にさらわれて海へ消えていった。
 ひとの骨は骨壺のなかで水に戻るという。骨壺に隔てられて水となって絶えるよりも、大きく猥雑な海でひとつに混じり合うほうが、このふたりの結末としてはふさわしい。私にはそう思えた。

 先生。
 私はあなたを救えなかった痛みを胸に、生きていこうと思います。

 私は砂浜を去ると、今日の宿を探すために鎌倉の駅の方角へ歩いていった。

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