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子どもの問題は誰のもんだい? ~地域の学校Vol.10

今回は9月末に実施した会の記録です。

だいぶ間が空いてしまいましたが、不定期で、ゆったり、オンラインで話す会は開催しています。
コロナ禍の最近の学校の様子を共有しました。

抱え込む学校

学校支援コーディネーターとして、地域の学校に参加しているよしみさんは、最近は職員室に顔を出しても疎外感を感じるといいます。

もともと学校支援コーディネーターの仕事はあまり明確に決まっておらず、先生たちが接し方を迷う場面もあったそうです。ただでさえ「何をしてるかよく知らない」状況なのに、昨今のコロナの影響も加わり、職員室は「何でいるの?」という空気が漂っているそうです。こういう状況だからこそ何かできることをという思いで顔を出すものの、その思いはうまく活用されていないようです。

一方で、先生たちは多忙です。教員のふなさんは最近も、業務時間外に電話を取り次ぎ、夜中に2~3時間話したといいます。

例えばSNSのトラブル。子どものみならず保護者も巻き込んでトラブルになる場合があり、先生が仲裁に入るそうです。

こうした時、子どもを一旦落ち着かせ、「自分のことだから自分で解決しなさい」とひとこと言えば、子どもは自分たちで解決方法を考えられるかもしれません。問題を複雑化しているのは、保護者が介入して冷静な相談ができない場合です。子どもだけならまだしも、我が子に頼られた保護者が子どもの肩を持つことで、余計に先生の仲裁が必要になる場合もあるようです。こうなると、もう子どもが解決できる問題ではなくなってしまいます。

学校は学校で、こうしたトラブルを穏便に済ませようと、より積極的に先生を介入させようとします。こうした大人の働きによって、子どもの自己解決力はますます奪われ、先生の残業は増える一方という構図が出来上がっています。

できないことは、「できない」という

学校の中で、現場の先生の力が大切なのはいうまでもありません。こうした業務時間外、対応範囲外の問題まで、子どもに関わることは全部やって当たり前の雰囲気があれば、先生たちは当然、疲弊してしまいます。

冷静に考えると、SNSは学校外での出来事で、先生たちは本来関係ないはずです。何より、子どもの問題を全て大人が解決できるわけはなく、子ども自身が自分で解決しなければならない場合もあるはずです。そうしたとき、大人が「子ども自身がやるべきことだ」と判断できるかどうかが、その子の成長を促す場合もあります。

今回の「ゆっこの部屋」の参加者の間では、SNSトラブルのような場合、学校や先生は対応できないとはっきりいったほうが良いよね、という意見が交わされました。学校が責任をもてないことは、社会が担う。言い換えればそれは、子どもに関わる全ての大人に対して、自分の行動を問う機会を与える事にもなります。

一方で、コロナ禍に手を差し伸べようと機会を伺っている、学校支援コーディネーターのような地域の大人も存在します。協力したい大人が加われば、学校だけでなくより社会として子どもに関わることができます。

できないことはできない代わりに、できることをやる。先生や保護者といった肩書よりも、大人として、一人の人間としての行動ができるようになったら、もっと教育は自由になれるかもしれません。

学校を社会とつなげたい

ゆっこさんは最近、近隣の自治体で行われた学校を作るイベントに参加したそうです。そこでは地域のお母さんたちが集まって、学校でどんな教育法を用いたらよいかについて議論していました。

その姿は、かつての自分と重なったと言います。

ゆっこさんが学校を最初に作ろうと思ったのは、およそ15年前とのこと。しかしその時は一度、学校づくりを保留にしました。その理由について、後日詳しくゆっこさんに聞きました。

教育法への理解を深めるためにほかの学校を見学していた時、ゆっこさんは「社会と学校が断絶している」と感じたといいます。当時は、参考にしていたサドベリースクールの特性として、子どもを大人の雑音から守るために世間から隔離しているイメージがあったそうです。しかし昨年、学校支援コーディネーターとして公教育に関わったときも、同じように学校が社会に開かれていないと感じたそうです。ゆっこさんは「教育というものが、何かしらそういった性質を持っているのかもしれませんね。」と語ります。

また学校づくりを見ていて、「これが子ども達にとっていいはず!」「子どもの幸せのために!」という大人のエゴも感じると、ゆっこさんはいいます。「こうやったら子どもが幸せになれるという視点ではなく、子どもが自分の人生の選択を自分でしていけること、そしてそこで起こる、良い事も悪い事も受け入れることが出来るように支えることの方が大切」とゆっこさんはいいます。

「教育、学校という概念や常識そのものが変わらなければ、何も変わらない」と気持ちから、当時のゆっこさんは学校を作るのを止めました。

そして現在。

改めて学校を作ろうといういま、たったひとつ「己であれ」という信念を徹底して貫くことを大事にしています。学校に求めるのは、自分のやりたいことをどれだけやれるかだけ。

ここでは、子どもだけでなく、大人たちの姿勢も問われます。必要なのは、ひとりひとりが自分を生きるという覚悟です。

その学校では、自分の知りたいことややりたいことに向かって毎日たくさん活動をしている人たちの姿が浮かびます。「幸か不幸かなんて考えてる暇もなくなると思う(笑)」と、ゆっこさんはいいます。

教育法やツールの議論に終始すると、結局、学校は自分以外の何か・誰かが担うものになってしまいます。自分たちの行動が含まれなければ、「自分たちがやりたいことができる学校」は実現できません。また、保護者にしてみれば、学校は自分の子どもが卒業するまでが一区切り。しかし、学校そのものはずっと地域に残るし、社会は依然として社会のままです。

人が入れ替わったとしても学校に残る、普遍的な教育とは、案外、学校の外からもたらされるのかもしれません。

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