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幸せを目指さない教育のかたち ~地域の学校Vol.8

これまで、ゆっこの部屋のメンバーでは、読書会を行っていろいろな著作を読んできました。

本はすべて違うものを読むのですが、ゆっこさんの読後の一言はいつも、「私が思っていることと同じだ!」でした。どうやら、ゆっこさんの頭の中には、これまで学んできた学校の在り方と共通する何かがあるようなのです。
それは教育法やメソッドが共通ということではなく、もっと根源的な、「生きることそのもの」についてのスタンスのようなものです。

以前、ゆっこさんが「東京サドベリースクール」(詳細は地域の学校vol.4を参照!)の運営をしていたときに書いた文章があります。

このときの気持ちは、今も全く変わっていないといいます。新しい学校を考えるときにも、ゆっこさんこのスタンスが学校の基礎になるはず。ならば今回は、私が思っていることを伝えたい、というゆっこさんのシェアから、会がはじまりました。

今回は、6月22日(水)のレポートです。

まず、ゆっこさんが共有してくれた文章をそのまま掲載します。少し長いですが、ウェブ上にも今は共有されているところがないため、引用します。

ゆっこさんの文章「幸せになる?」

今回は「幸せになる?」について私の感じることをシェア致しますね。
何故「 」 がついているのか。
最近、私は幸せと不幸せの区別がつかなくなりました。
幸せだと思っていても不幸せと思えるような出来事もあるし
不幸せだと思っていても幸せだと思えるような出来事もあるし
結局のところ、すべてがあって自分の人生なのだと思うのです。
幸せにならなければいけないものでもないし
不幸せでいることがいけないことでもないし
毎日の暮らしの中での出来事を自分ですべて受けとめることができれば
幸せだとか不幸せだとか物事をいちいち決めつける必要がなくなるように思います。
すべてあってOK だと。
もっともっと寛大な心で、人も物事も見れるようになります。
それは、とても自由な感覚なのです。
娘はこの春からサドベリーに籍を置きながら、 自分の好きな仕事に就いています。
最初は好きなことをやって、お金をもらえて、人が喜んでくれて
こんなに嬉しいことはないと言っていました。
もちろん、今もその気持ちは変わらないのですが
それでも、誰かと関わって仕事をしていれば
いろんな葛藤があります。
怒られ、打ちひしがれることもあります。
何度も悩みを聞いていたのですが
ある時、娘が言いました。
「私はこれを選んだから、今、悩むことができるんだよね。これも幸せなことだね」
どんな状況でも、自分で幸せかそうでないかを決めることができます。
それも自分の選択なのだと思います。
娘の根底には、自分で選んだという自分自身を肯定する気持ちがちゃんとあるのだと思います。自分の気持ちに正直に動いた結果。だから、苦しいと思うこともすべて自分の責任において受けとめていけるのでしょう。
私は娘に、「どこにいてもあなたのままでいなさい」
それしか言いませんでした。
娘は「うん、それしかできない」と。
こんな心強い答えがあるでしょうか。
そんな会話ができるのを、とても嬉しく思いました。

ただ生きるということ。このテーマを、なぜ今回シェアしたかったのか。

今、ようやく日本でも、これまでの教育を変えていこうという動きが広がり始めています。教育の変革を唱える人の多くは、「子どもの幸せのために」というフレーズをよく用います。

ゆっこさんは、こうしたフレーズに対して、「幸せ」が大前提に置かれていることに違和感があるといいます。人生では、幸せなこともあればそうでないこともたくさん起こります。その時々に、子どもが幸せと感じるか不幸と感じるかはどうでもよく、ただ「生きる」ということが大事だと、ゆっこさんはいいます。

ところで、一時の感情や環境に関係なく、ただ「生きる」というのは、どういうことなのでしょうか。

具体的に今回話題に上がったのは、人が特につらい状況にあるとき、自分や周囲の人はどう行動できるか、ということでした。率直に話すと、ここでは文章にできないくらい、重く、話しにくいこともたくさん話しました。詳細は割愛しますが、キーワードとなったのは、ゆっこさんの文章にもある、「自分で選んだという自分自身を肯定する気持ち」です。

例えば、親しい誰かがつらい立場にあるとき、私たちはその人にどのように接するべきか悩んでしまいます。しかし、人生において「苦しみ」も当然起こりうると知っていれば、受け止め方も違ってきます。

「幸せ」ばかりがよいと思われがちですが、苦しむこと自体が悪いわけではありません。自分がやりたいと思って選択したことであれば、苦しみもまた、受け入れやすくなります。

でも、もしその人が選択したくないほうを選んでしまったばかりに、苦しい思いをしているのであれば別です。苦しんでいる誰かを目の前にして私たちにできることは、明るい言葉や励ましの言葉よりも、その人が選びたいものを選べる環境を作っておくことが必要なのではないか、とゆっこさんは語ります。周囲にいる私たちは、相手の今の感情で安易に「いい・悪い」を判断せず、「どちらを選んでもいいよ」という姿勢を持ち続けることしかできません。

時には、子どもが選んだ道が、保護者にとって不安で心配でたまらないということもあるかもしれません。それでも、自分の人生は、自分にしか決められないのです。

人生は選択の連続

生きるということは、自分の人生を自分で選択するということにほかなりません。そして、自分以外の人を尊重するということは、その人の人生におけるあらゆる選択を受け入れることと同義です。

それには、生きている間の選択だけでなく、いつか訪れる死も含まれます。身近な人であればあるほど、その死を受け入れるのは、残された人にとって非常に辛いものです。それでも、大切な人が「その時」を迎えた時に、自分の選択に満足し、「好きに生きた」と思えるならば、周囲の私たちが何も言うことはないでしょう。

自分がいつ生まれていつ死ぬかということは、一見して、自分では決められないことのように思われます。しかしゆっこさんはそれすら「その人が自分で決められる」と確信をもって言います。それは、圧倒的に人を尊重するという姿勢と、その人が自分で決めたという信頼の裏返しであるように筆者は思います。

今回の対話を終えて、「ありのままの自分を受け入れてもらえる」環境をつくることが大切なのでは、とふなさん。先日みんなで読んだ『ティール組織』にも、「会社でも自分のままでいる」というフレーズがありました。同じことが、学校においても言えそうです。自分と違う立場の人がいた時、対立や拒絶ではなく、受け入れることから環境づくりがはじまっていくという予感があります。こうした場をうまく形にしていけたらと思います。

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