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トラの『耳ぽっち』 第五夜

難解な人の世で、もまれて来たこの男にも心を休めることの出来た幸せな時間はあった。
この時期になると、時々そんなことを思い出しているようだ。

私はまだその頃、この男のご両親に飼われてはいない、空気中のちりだった頃の話だ。
ご両親とともに愛知の片田舎の会社の社宅に住んでいた頃だ。
毎日が天気、青空しか見ることの出来ないそんな太平洋沿岸気候に恵まれた土地だった。

この男がある時期に書いていた文章を見つけた。

温かな布団、陽の温もりを力一杯吸い込んだ布団、小春日和の昼下がり温かな時間がいつも流れていた。小学校の四年までいた愛知県豊川市の社宅を思い出す。アパートが二棟、子供たちが集まる砂場と大きな松の木を挟んで建っていた。その頃は大きな松の木と広い砂場があると思っていた。しかし四十を過ぎた頃に社宅の跡地に立ち寄ったことがある。大きな敷地と思っていた社宅の敷地は思いのほか広くなく驚いた。松の木もそれほど大きくなく、海のように思えた砂場もそれほどでもなかった。全ては子供の記憶であった。会社の社宅は人手に渡り当時の面影はなかった。幸せを感じたあの頃に戻ることは出来ない。でも思い出は朽ちることも無く、この世から消え去ることも決してない。あの初冬の暖かな日差し、陽を吸って熱いくらいの布団を私の肌は忘れることなくいつまでも憶えている。

汗かきのこの男と兄貴のために、お母さんはいつも社宅の屋上で布団を干していたそうな。
お母さんの愛情だったんだよ。

布団が熱いといつも寝る前に文句を言っていたこの男、どうやら最近ではその熱い布団が恋しいみたいである。



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