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小春日和で思い出すあの日

1989年、京都御所の西にあるホテルの宴会場の増築工事の現場事務を担当していた。時はバブル、どの建設会社も断らねばならないほど仕事にあふれていた。京都は南北に長い、北は日本海、南は奈良に隣接している。当時の現場事務にはもちろんパソコンなど無く事務作業のすべては手作業で行った。

京都営業所の事務課長に嫌われていた。営業所の公費を自身の財布代わりにし、飲み代を協力業者に押し付ける事務課長を面と向かって新米の私はなじってしまった。そしてそのしっぺ返しは私の担当現場であった。北の舞鶴の作業所と南の京田辺の作業所と京都市内御所近くのホテルの作業所を同時にあてがわれた。毎月月末の締めはどの現場も同時である。所長と各工事の出来高を確認し請求書をまとめ、収支予測を作る作業を三現場同時にしなければならなかった。だから毎月二晩ほど徹夜して各現場の所長との打合せをし、請求書回収のために京都の北から南まで車での移動をしていた。

ホテルの作業所の所長が一番若かった。無理を聞いてくれた。夜の遅い時間、日曜日でも時間を合わせてくれた。突貫工事で晩の9時に現場に着いてもまだ仕事は続いていた。それから打合せをし、資料を回収して、所長に誘われるがまま祇園の駐車場に移動しクラブで酒をご馳走になり歌を歌ってそのまま営業所に行って仕事の続きをした。若かったから無茶も平気だった。その事務課長に「出来ませんでした」なんて、男である以上言えるわけがなかった。そんな子どものような時代だった。

珍しくその日は早い午後に一人ホテルの現場事務所にいた。その頃、いつもポータブルラジオを持っていてNHKの第一放送を聞いていた。車の移動中もいつもラジオを聞いていた。現場事務所で流れて来たニュースはイラン・イラクによる「イライラ戦争」の激化だった。当時父がイランにいた。父もゼネコンに勤め、ODAの仕事で道路建設に当たっており最後まで帰国してこなかった。

父とは疎遠であった。男の親子は常にそうなのかも知れない。我が家にいる障害者の兄貴の将来を考えているのかいつも私には不明だったのである。母にあまりに甘えすぎているのではないだろうかと疑問だったのである。子どもの頃から多く言葉を交わすことは無かった。
しかし、この時ばかりは父を心配していた。ホテルの現場事務所は増築工事で、空き地を借りた小さな仮設ハウスだった。天日を直受けする天然冷暖房の事務所だった。ちょうどこんな時期だった。小春日和の午後、天然暖房の暖かさの中うつらうつらしながら書類をながめていて聞いたラジオのニュースだった。
不思議だがこの時に父を身近に感じたのである。口も利かぬ親子であるが、この時初めて父を感じたのである。不具の息子のため、家族のために酒も飲めない自由を虐げられた場所で仕事をしているのであろうと父を想像したのである。

ただ、その瞬間だけだった。また仕事の波に私は巻き込まれ、父と会ったその翌春まで父のことはすっかり忘れていた。やつれて痩せた父を初めて見た。後で聞けば現場の事故で若い部下を一人失っていた。少ない言葉の中にそんな事実を聞き、父の男を感じていたのである。



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