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トラの『耳ぽっち』 第四夜

― 尊敬すべき大先輩高山部長に捧げる ―

人の世は難解なことが多い。
飼い主であるこの男、多くの人の世話になり、多くの事件に巻き込まれながら生きてきた。

そう言えば、ゼネコン時代営業に移って二年目、優秀な若手営業課長に嫌われて、営業部で一番年嵩の営業部長につくことになったそうな。

この高山部長、もとは建築屋さん、大阪支店で過去施工した一番大きな建物の所長を三十歳そこそこでやったそうな。
今から遡り50年も前のこと、当時この男のいたゼネコンは土木創業で建築工事は駆け出し、なかなか大阪で大型物件を受注しにくい業界内でのルールがあったそうな。

しかし、そのままではいつまでたっても建築が育たない。
勇気ある賢い支店長の独断でそのルールを一回だけ、わざと間違えたそうである。
かくして大型工事の受注となったが、その時見渡せば責任者として出て行けるのは若かりし頃のこの高山部長しかいなかったそうな。

高山部長は、最初は歳の若さから発注者からもなじられ、死に物狂いで一年間仕事をしたという。
そして、髪の毛が一本残らず抜けてしまうほど悩みながら仕事した。
まわりではこの特殊建築物にある死刑執行を言い渡す場所の施工に携わると髪が抜けるというジンクスが囁かれたそうな。

しかしこの男は高山部長から直接聞いている。
「あのジンクスは嘘だ、俺はアトピーの気があってな、精神的なことが重なったんだよ」と、かなりのストレスを乗り越えられたそうである。
工事は無事竣工し、次からの施工実績となり会社の建築部門を伸ばしたそうな。

そんな大きな貢献をした高山部長はその時60歳を過ぎていた。
勇退の道を歩かれていた方であった。
「まさか宮島君のような若者とまた仕事が出来るとは思わなかった」と言った。
それから一年間この男は高山部長からいろんなことを伝えられた。
聞いた会社の歴史、大阪の業界の歴史はその後、役に立ったと、この男はいつも言った。

昼飯を一緒に食べると、千円札を出して「一緒に払ってくれ」と言って、釣りはどう言っても受け取らなかったそうである。
この男、その頃は小遣いなどほんの少し、その釣りを貯めて本を買ったそうな。

高山部長が入社した頃は食い物にも困り、野犬をつかまえて焼いて食ったそうである。
その時の現場所長、後に専務まで上り詰めた方、これが優秀な方で、自分が買って来た岩波文庫を現場内で回し読みをさせたそうである。
食べるものにも、活字にも飢えており、その時に本を読む習慣がついたそうな。

そんな高山部長は退職されて、古希を迎える前に他界している。
企業戦士として働き、退職時にすでに身体はボロボロだったと葬式から帰って来たこの男はグダグダに酔っ払って言っていた。

人の世は難解なことが多い。
飼い主であるこの男、多くの人の世話になり、多くの事件に巻き込まれながら生きてきた。

そんな話を聞くたびに、猫に生まれてよかったと自分の幸せを嚙みしめている。


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