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ポテトサラダの夕べ

週末の稽古で合気道仲間からジャガイモを頂いた。
自宅の庭で作ったキタアカリと男爵を三つずつ。
若いお二人は新築の自宅の庭で花を育て愛で、野菜を作り季節を味わっているようである。
自身で作ることはその過程の苦労、苦心を理解できる。
生産者の方のご苦労も分るであろうから、スーパーで買った食材も粗末に扱えないようになるであろう。
そして、本当の味を知り、楽しむことも出来るであろう。
だから、大変好ましいことと思う。

思い出す。
高校は深く考えることなく自宅から自転車で10分ほどの県立の新設校に入った。
なんとなく自宅から近くにいなければならないと思っていた。
1クラス40名、4クラスだけの全体で160名の1年間の高校生活だった。
先輩のいない高校生活を3年間送った。
それでも生涯を通じて付き合える友を見つけることも出来、それなりに楽しい高校生活を送った。

実はその高校で緑化係を仰せつかった。
それだけはよくなかった。
愛知県三河を流れる豊川放水路は治水のために世界銀行から借款し建設された。
その放水路沿いの田んぼの真ん中にぽつんと建った高校であった。
この時期の風に吹かれなびく緑の苗は高校生の私の目にも美しく映った。
緑の真ん中を通る高校へ続く一本道を自転車で走るのは気持ちよかった。
しかし、新設の高校の敷地内に緑は極端に少なかった。
校門あたりの植栽くらいしかなかった。

緑化係の仕事は、どこかから時々届く苗木を敷地まわりのフェンス沿いに順番に植えていくことだった。
その名の通りの緑化係だったのである。
一年間を通じて高校は無給の若い作業員を確保し、炎天の夏の日も空っ風の強い冬の日も計画的に植栽工事を完了させたのであった。

それからである。
自分で手を加える必要のある緑は好きではない。
ほぼ毎日が仕事だった頃の奈良の自宅の庭の手入れと垣根の剪定が苦痛でならなかった。
とどめは実家の両親が出来なくなった後の庭の手入れと始末であった。
実家に行くたびに剪定と草むしりが待っていた。
認知症になった両親は作り過ぎたキュウリやナスやら夏野菜の処分に困りいつも喧嘩をしていた。
すべてを車に放り込み、私が喧嘩の火種を大阪に持ち帰っていた。

そんなことを思い出しながら、頂いたジャガイモをまとめて電子レンジにかけた。
中くらいの大きさ、1つ1分が目安である。
ラップをかけた耐熱ボウルの中でキタアカリはすでに皮がむけかけていた。
熱さに耐えながら素手で皮を外し潰してオリーブ油と粗挽き胡椒、水を軽く切ったサバの水煮缶、マヨネーズ少量と塩で味を調えた。

愛情のこもったジャガイモは美味かった。
惰性で作ってはならないのだろう。
形も肌もきれいなジャガイモだった。
自然を育てる経験は出来る時にしておくべきであると思う。
お二人にはそれどころではなくなるその時までの間、人生における必須の授業だと思い楽しんでもらいたいものである。

「手塩に掛ける」という言葉が好きであるが、ポテトサラダはまさにそんなふうに作らなければならないのであろう。
私の塩加減のポテトサラダはいつもと変わることなく美味しくいただけた。

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