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日記のような、びぼーろくのような(2023.06.06 出稼ぎ先から見た東京タワーへの思い)

東京タワーはデカかった。

もう半世紀も前になる。愛知県豊橋市の小学生だった私は都内観光のバスに揺られ酔っていた。
もちろんまだ小学生、さすがに私でもその頃酒は飲んでいなかった。極端に乗り物に弱く、特にバスには弱かった。
「着きましたよ。」と言うバスガイドさんの声が待ち遠しかった。バスの乗降口から飛び降り、東京の空気を思い切り吸い込むと目の前に東京タワーがあった。
実はその時の記憶はそれだけなのである。

生まれて初めての東京タワー、それまで見た建物の中で一番大きかったに違いない。私ばかりではない多くの人間のたくさんの思い出を作って来たメモリアルタワーとも言える東京タワーがそこにあったのである。
その東京へ二十歳で出て行き流れ流れて今大阪で生活する。
縁もゆかりも無かった大阪で私の人生の半分以上を過ごして来た。
不思議である。あの時の東京タワーと目の前にした東京タワーは同じものであった。変わるのは私であり、ここまで生きてきた人間たちなのである。

放置竹林整備のNPOでの資金稼ぎに東京まで出稼ぎに来た。
放置竹林を二次加工した製品を大学合気道部の同期生の会社のノベルティグッズとして買ってもらう。
そんなことが出来る立場に皆なっているのである。
朝から新橋に行き、白金に行き、銀座に行き、ゼネコン時代の営業を思い出し都内をウロウロした。大学に通っていた頃、白金に住む伯母の家から東京タワーが見えた。そして今はもう見ることは出来ない。

1958年昭和33年に東京タワーは竣工している。第二次世界大戦の傷は癒えつつあり、誰一人としてこの令和の世のような閉塞した希望を失った時代が到来しようとは予測せず、日々を汗して働き右肩上がりの日本経済を支えてきた。そんな日本をずっと見守ってきたのがこの東京タワーなのである。この日本の希望の象徴のような東京タワーは今多くのビルに囲まれてその美しさもその力強さも享受できる場所は少なくなっている。都内の多くの場所からその姿を目に出来、私たちを力づけ、励まし努力する源となってくれた東京タワーは今、林立するビルの谷間にひっそりとたたずむ。

これでいいのかな、そんなふうに思った。未来永劫なんてありえない。象徴にすがり付いて生きていくなんて出来はしない。私たちは私たちの足で歩かなければならない。どんな時代が、どんな世が来ようとも私たちは私たちの足で歩かなければならないのである。
「またな、」とこの日の東京タワーの姿を目に焼き付けてその場を後にした。
次は東京タワーに登ってみよう。
あの頃感じた何かを思い出せるかもしれない。今、私が失ってしまった何かを。きっとそんなことを思い出させるスイッチが東京タワーなのであろう。
まだまだ私は立ち止まるわけにはいかない。その原動力になる何かを思い出させてくれる場所に次は帰ってみようと思う。

晩は同期、後輩と学生時代に戻って浴びるほど飲んだ。
皆、髪は白くなり、薄くなりそれなりの時間を容姿に染みつけてはいるが、基本は何も変わりはしない。あの時に同じ時間と空間を共にした仲間たちがそこにはいた。
あの頃毎晩飲み、悩みや人生を語った江古田の夜は場所を移し、東銀座の夜は粛々と更けていったのであった。



翌日、二日酔いの身体を引きずって浅草寺でお参りをし、こちら note でお世話になっている菊地正夫アニキに会ってきました。神楽坂の蕎麦屋で腹いっぱいの日本酒と料理をご馳走になり、二日酔いは酔いに戻りリアル菊地アニキといろんな話をしました。ネット上では言葉を交わす菊地アニキと現実の世界で会い、話し、酒を酌み交わすのはとても不思議な気がしました。真面目さ、人としての魅力は普段と全く同じでした。とても楽しい、素敵な時間をともに出来ましたよ。       リアル菊地アニキのおみ足です。

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