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料理の思い出

生まれて初めてやった料理ってのを誰もがあんがい憶えているんじゃなかろうか。

初めての料理の理由はまちまちであろう。
私の初めての料理は小学5年生でのことであった。
それを料理と言えるのかは分からないが、インスタントラーメンを作ったのである。

この5,6年の担任がとても人間的に魅力のある他界されるまでお付き合いさせてもらった先生であった。
そして、少し軽はずみなところもあり、運動会のクラス対抗の綱引きで優勝したらみんなにラーメンをご馳走すると約束してしまった。
そして私たちは実力以上の力を出して優勝してしまったのだ。

今から半世紀も前のことではあるがクラス40人全員に中華料理屋でラーメンを食べさせれば少なく見積もっても聖徳太子一枚くらいは軽く飛んで行ってしまった事であろう。
先生も若かった。自宅まで遊びに行ったことがあったが私たちより小さなお子さんがいた。先生の自由になる小遣いはたくさんは無かっただろう。

運動会の翌日、先生は学校で見かけることのない団ボール箱を小脇に抱えて私たちの前に現れた。
朝礼で先生は前日の私たちの奮闘を称え、自ら公言していた約束を破ると言って私たち一人一人にインスタントラーメンを手渡してくれたのである。
「これで勘弁してくれ!」と子どもである私たちに頭を下げたのである。

なんとも真面目な、最後は校長として引退されるまで数少ない私の尊敬する先生であった。

そのインスタントラーメン、私の記憶ではサッポロ一番塩ラーメンであった。
我が家で食べることのないラーメンだったのである。
我が家では日曜日の昼はインスタントラーメンが多かった。
母が買ってくる銘柄は地元豊川の山本製粉株式会社が作る『ポンポコラーメン』だったのである。
一袋に5食の乾麺の入ったお徳用で、母は家族4人分を大鍋で煮て、しかもキャベツばかりか人参、玉ねぎと健康重視で冷蔵庫の残り野菜がどっさり入っていたのだ。
日曜は朝から社宅の庭で皆で遊んでおり、母の「ご飯よ!」の掛け声で皆、三々五々部屋に帰って行った。
それから食べたラーメンは伸びているわ、野菜が多くて味が薄いわ、で決して美味しい食べ物では無かったのである。

そんな私に千載一遇のチャンスが巡って来たのであった。
職業婦人の母からは、留守中の私と兄との子供だけのガスを使っての煮炊きは厳禁されていた。
それでもどうしてもそのサッポロ一番を食べたかった私は鍋用の電熱線のコンロを持ち出して来てそれで作ったのである。
「作り方」の説明を読み、水の量と時間を正確に作ったラーメンは美味かった。
母の作るラーメンとは別物であった。
ラーメンの種類で味が違うのではなく、作る方法と食べるタイミングで味が変わると気付いた私はそれから徐々に自分でラーメンを作るようになり、他の物にも手を出していった。

そのうち慎重な私の火の扱いに安心した母からガス台使用は解禁された。
こんなきっかけが無ければ私のキッチンへのデビューはもっと遅かったに違いない。
その後はそれまでの母の料理に感じていた事への反動であった。
美味い物が食べたいと思い母の夜勤のたびに用意していった料理に勝手に手を加えて自分の好みの料理に変えていったのである。
考えれば悪い息子であったが、兄もそれを喜んでいた。
兄との間にはそれを絶対公言しないという密約も結ばれていた。

私が料理が好きなのは母と兄のおかげと言っても過言ではないのである。

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